由良成繁 〜戦国大名、由良氏誕生〜


永正三年(1506)〜天正六年(1578)
由良成繁は曾祖父と同名で、横瀬泰繁の子です。名前は業繁とも伝わり途中から由良を名乗ります。
妻は妙印尼、子に由良国繁、渡瀬繁詮、長尾顕長がいます。

横瀬氏は武蔵七党のうちの猪俣党の流れを組み、小野篁の末裔という事で小野姓を自称していました。。
それはつまり、孝昭天皇の子孫という事なんですけど、どうなんでしょうね。
途中、婿養子に新田義貞の孫を迎えたという家伝を元に、後には新田氏を自称することとなります。
後に由良氏を名乗るわけですが、新田四天王の一人である由良具滋に肖ったんでしょうかね。

父である横瀬泰繁が天文十四年の下野壬生合戦で討死し、家督を継いだ成繁ですが、その時はすでに家政をある程度動かしていたようです。
岩松氏と横瀬氏の内部闘争が世代を重ね続けられる中、関東の情勢もだいぶ当初と比べ変化しました。
河越合戦で両上杉家が北條氏により壊滅的打撃を受けており往時の勢いはなく、東毛でも赤井氏や那波氏が北條方として横瀬氏と抗争を繰り広げています。
さらに天文十七年、岩松氏の当主であった岩松氏純が横瀬氏の圧迫に耐えかねて自害。
成繁は氏純の子、守純を新たな当主として擁立します・・・無論、傀儡ではありますが。

そんな最中の天文二十一年、北條氏の圧迫に耐えかねて関東管領上杉憲政が越後に逃げる事態となりました。
しかし、憲政が上州を出た後も成繁は関東管領方として北條氏と抵抗を続けます。
敵に囲まれるような状況下の成繁ですが、天文二十二年には足利義輝より御内書と鉄砲が贈られるなど、着実に地歩を固めます。

北條氏の関東経略が日に日に進む中、越後から上杉憲政を奉じる長尾景虎が、永禄三年の秋ついに越山!
北條方の城を次々撃破し、一気呵成に厩橋城まで到達し関東征伐の根拠地とします。
成繁はすかさず長尾景虎の求めに応じ陣に加わります。
この時集まった諸将の紋様を記させた「関東幕注文」に横瀬氏は「新田衆」として記されています。
越後勢は同年には横瀬氏と争っていた那波氏の居城である堀口城を攻略、那波氏の領地は成繁に与えられました。
時期ははっきりしませんが、この頃から名字を横瀬から由良に改めたようです。

永禄五年には京の将軍足利義輝より信濃守ついで刑部大輔に任じられ、さらに岩松守純を金山城から追放し名実ともに大名となりました。
そして下野足利庄の足利長尾氏を養子戦略で旗下に組み込んだり、家中法度を出し内政を整備するなど、体制固めに奔走します。

関東の情勢は「長尾景虎が越山すれば諸将は長尾に靡き、退けば北條に鞍替えする」という状況が繰り返されますが、成繁は途中まで一貫して親長尾(上杉)の立場を崩しません。
しかし、北條とともに北條と盟を結んでいる武田が西上野経略を進め、長野業政業盛親子が奮戦するも永禄九年に箕輪城が落城、上州は反上杉勢力が大半を占めるようになります。
ついに成繁は決断、上杉謙信の下を離れ北條氏に与することとしました。
この際、つられてかどうかはわかりませんが上杉旗下の厩橋城代の北条高広も寝返りました(笑)
話を聞いた上杉謙信は由良成繁の事を「第一の侫人」と呼んだそうです。

しかし永禄十一年に武田信玄の駿河侵略による甲相同盟の破綻、この機を持って成繁は上杉・北條双方の間を取り持ち、永禄十二年の同盟締結を成し遂げます。
成繁は謙信に許され、おまけに(かどうかは知りませんがw)北条高広も上杉家に戻りました。

その後、越相同盟により関東が一時的な平穏になる隙をついて桐生や伊勢崎、館林等を攻略し、新田荘のほぼ全域を由良氏の統治下に置く事に成功します。
これを機に成繁は桐生城に隠居し、家政を嫡男である国繁にゆだね、隠居後は桐生の街割整備や鳳仙寺の建立等を行いました。

このまま楽隠居かと思いきや元亀二年に越相同盟が破綻、三年後の天正三年には上杉謙信が越山し金山城を攻撃しました。
しかし天下の険城である金山城を成繁は守り抜き、越後勢は冬の前に引き返しました。
これが、上杉謙信による最期の関東攻めでした。

そして天正六年、由良成繁は病に倒れます。享年七十四歳。奇しくも上杉謙信も、同年死去しました。
亡骸は自らが建立した鳳仙寺に葬られ、現在も墓が残っております。

上杉・北條・武田に囲まれながら、大名化を果たし横瀬氏時代も含めて最大領土を獲得し、かつ家を滅ぼす事なく次代につなげた由良成繁。
その才覚に高い評価が与えられても不思議ではありません。
もし、長野氏と(あと沼田氏もw)手に手を取って上杉憲政を支え上州一国を守っていたなら・・・等と想像してしまいます。

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