長野業盛 〜名のみぞ残る箕輪の山里〜


天文十五年(西暦1546年/皇紀2206年)〜永禄九年(西暦1566年/皇紀2226年)

長野業政の三男(次男とも)で、箕輪城落城の際の城主です。
別名は氏業とも言います。
兄であり、本来は長野家を継ぐべきであった吉業は、河越の夜戦で討ち死にしています。

永禄四年(1561年)に、父業政が病没。
業盛は14歳の若さで家督を継ぎ、西上州箕輪衆の筆頭として父が戦い続けた武田信玄との合戦を続ける事になります。
吉業、業盛とも父ににて知勇に優れた名将であったようです。

業政は死去する際に遺言を残します。(関八州古戦録)
『私が死んだ後は一里塚と変わらないような墓でいい。法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない』
また、業政は自らの死をしばらく秘する事を命じました。
ところが、人の口に戸は立てられないもので、信玄は業政の死を嗅ぎ付け、武田軍の西上州攻めはいよいよ勢いを増します。
死去と同年に一度武田軍が攻めてきますが、業盛率いる箕輪衆はなんとか箕輪城にて跳ね除けました。

しかし、業政が構築した娘を嫁がせた箕輪の結束も、業政亡き今となって徐々に綻びはじめます。
信玄も名うての謀略家、その綻びを突っつかないはずがありません。
信玄の箕輪城攻略のプランは「支城群の各個撃破」を行うことでした。

まず、永禄四年には小幡景純(景定とも)が信玄に降り、国峰城は武田方の物となります。
続いて和田業繁が翌永禄五年に降伏。
業繁は永禄六年に北條氏康と連動して、倉賀野城を攻めますがこれは上杉謙信が越山し救援したため何とか守り通します。
同年、岩櫃城が真田幸隆の手によって落城し、城主である齋藤憲広は吾妻方面に落ち延びます。
永禄七年には松井田城、安中城が相次いで落城。
安中城主・安中忠成は降伏、松井田城主・安中忠政は自刃します。

永禄八年、倉賀野城がついに落城。
城主である倉賀野尚行は上杉謙信を頼り越後に落ち延びます。

そして運命の永禄九年。
武田信玄は2万の大軍を率いて満を持して箕輪城攻略を開始しました。

業盛は箕輪城に篭城し、必死の抗戦を試みます。
武田軍は、長野一族である長野業通のこもる鷹留城と箕輪城の連携を断つために周辺の砦や小城を次々と攻略します。
鷹留城との連携が取れなくなった箕輪城は、正に孤立無援の状態になり、鷹留城では城内から内応者が出て落城。
いよいよ武田軍の矛先は箕輪城に向かいます。

この時、箕輪城に篭っていた城兵は約千五百程。
対する武田軍は2万
一時は、業盛自ら城門を開き果敢に打って出て敵兵の首を刈り取ります。
重臣、藤井友忠はあと一歩のところまで武田勝頼を追いつめますが、力及ばず討ち死にします。

しかし衆寡敵せず、永禄九年九月末
箕輪城本丸北側にある持仏堂の中で、父業政の位牌を拝んだ後、業盛は一族郎党とともに自刃しました。
享年十九歳

辞世の句として「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の山里」という一首が伝わっています。

業盛の子は落ち延びて僧侶となりました。
弟らの一部は生き延び、武田氏滅亡後に上州に入った徳川氏の家臣である井伊直政の家臣になり、彦根藩の次席家老になったそうです。
(井伊直弼の学問の師である長野主膳義言は、上州長野氏の後裔であるという説があります)

現在、高崎市にある大円寺には「長野業盛の墓」が残されています。
自刃の後、哀れに思った僧侶がひそかに遺体を運び出し、当地に埋葬したという伝承が残されています。

父業政の遺言を見事に守り、勢力は小さくとも強敵武田信玄に一矢も二矢も報いて、まさに「名のみぞ残る」最後でありました。

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