北条高広 〜背いて許され、許され背いて〜


永正十四年〜永禄十五年 越後出身

「ほうじょう」ではなく「きたじょう」と読みます。
読み方も違うので、当然、相模の獅子である北條氏康等とは血縁的に関係はありません。

越後北条氏は、安芸毛利家と同じ大江氏の系列で、越後国内でも同族として安田氏がいます。
北条氏は代々長尾氏に仕え、中でも高広は器量や武技に優れた名将とされています。

そんな高広ですが、主君である上杉謙信に二度にわたり裏切りを働いています。
一度目は、越後国中に会った際に、武田信玄にそそのかされて領地である北条城にて反旗を翻しました。
天文二十二年の事ですが、翌年には上杉謙信に攻められてあっさり降伏。
以降は重臣として奉行職等にあったようです。

裏切ったとはいえ、家中でも優秀と評判の北条高広ですから、謙信の覚えめでたく出世していきます。
関東出兵の後、高広は関東経略の拠点と定められた上州の厩橋城の城代として上州詰番を命じられます。
留守番と言えばそれまでですが、謙信が越後にあるうちは「謙信の代官」として上州から関東諸将と連携を持ち続ける役目です
いわば謙信の「上州代理人」という地位、なんという重要な地位でしょう、これは並みの部将には務まりません
戦の才能もさることながら、他国との外交折衝や在地の国人との密接なつながりが必要になります
この地位を任された高広は、よほど才能を認められた上で謙信からも信頼厚き事疑う余地がありません。

でも・・・また、やっちゃいます、この男(笑)

上州厩橋城の城代であるとき、今度は北條氏からの誘いに応じてまたしても謙信に反旗を翻します。
永禄十年の事でした。
今度は謙信も反乱討伐とはいえ越山する必要があるため、むやみに出兵には及べませんでした。
しかし翌年、北條氏と武田氏の関係が悪化した結果、謙信と北條氏康の間で越相同盟が締結されます。
その中で氏康を介して高広は再度謙信の元に帰参し許されました。
その後も上州に居続けた事から、上杉家中での職責や地位に大きな変化はなかった様子。

実は高広、家中一の「粗忽者」として有名だったようです。
いわゆる「おっちょこちょい」
主家に謀反があっても「あー、あいつはおっちょこちょいだから、すぐ引っかかるんだよなー」みたいな扱いだったんでしょうか(笑)

晩年は大胡城に隠居し、嫡男である景広に家督を譲ります
謙信死後、御館の乱が勃発した際は息子とともに上杉景虎側を表明します。
越相同盟の名残でしょうか(上杉景虎は謙信の養子であり、実父は北條氏康)

御館の乱では息子である景広が戦死し、景虎方は敗退。高広は武田に亡命しました。
その後、武田勝頼(もしくは武田氏滅亡後に滝川一益)の取り成しで再度上杉家に帰参したようですが、最期の消息は不明となっています。

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