岩松守純 〜終焉、大名岩松家〜


天文元年〜元和二年 東毛の名門、岩松氏の出自。

岩松氏は正真正銘、源氏の血を汲みんでおり上州でも一、二を争う名家です。
惣領である新田氏が没落し、新田荘を分割相続した世良田氏も歴史から消えてしまった後は、まさに独壇場。
「新田岩松氏」とも称され、新田氏の直統のような位置づけで見られていた事でしょう。

曾祖父尚純、祖父昌純、父氏純と、三代にわたり横瀬氏の専横により、下剋上をじりじり受け続けた岩松氏もついに守純の代で陥落します。

ついに、横瀬成繁は行動に出ます。
居城・金山城を完全に掌握した成繁は、主家筋である守純を桐生に押し込め監禁してしまいます。
成繁は姓を横瀬から由良に改姓し、由良成繁と名乗るようになりました。

ここにきて遂に名門である岩松氏は、国人領主(小大名と言ってもいいかもしれないけど)としては完全に滅びました。

その後、由良成繁は武田・上杉・北條の強豪ひしめく上州で立ち回り、最終的には北條氏に金山城を奪われます。
豊臣秀吉にいる北條攻めの後、上州は秀吉から家康に与えられますが、由良氏は北條攻めの際の妙員尼の活躍により廃絶は免れたものの常陸に転封。
桐生に監禁されていた岩松守純は家康により召しだされ、後に二十石を与えられ旗本となりました。

その後は旗本として生き続け、大坂の陣の翌年の元和二年に死去しました。
享年85歳と、当時としては長生、天寿を全うしたのでしょうか。

さて、石高二十石という、禄の低さの説明になるかどうかわかりませんが、守純には以下のような話が伝わっています。

守純が徳川家康に接見した際、家康は守純に新田氏の系図を譲渡するよう求めたそうです。

徳川家康は、源氏に家系をつなげるために、新田氏の一族である得川氏の末が松平氏であるとしました。
まぁ、これは誰にも判断付かない「真っ赤な嘘とも言えないけれど、証明もできない限りなく胡散臭い話」なわけで。

松平氏の本姓は賀茂氏という説もありながら、松平信光は源氏を名乗ったり、松平清康は世良田氏(新田系源氏)を名乗ったり。
家康自身も藤原姓を名乗ったりした時期もありまして、まぁ、要するになんでも良かったんでしょうかね(笑)

ただ、征夷大将軍になろうとすれば、明文規定はないものの、源頼朝以来宮将軍を除いては源氏筋が将軍位に就いている慣例。
「自称源氏」じゃだめだから、しっかり系図でつなげたかった事でしょう。

対する守純の岩松氏は系図がハッキリしている純粋培養の源氏系
さかのぼれば新田氏にも足利氏にもたどり着く、いわばプリンスです。

新田氏嫡統の家系図が手に入れば、そこにちょちょいと書き加えてしまえば、松平氏が源氏に連なった証拠を作れます。
もー、狙いがバレバレ・・・

しかし、ここで守純はこれを拒否、最後の最後で名門のプライドを守った形になったという事でしょうか。
それもあってか守純は、禄高わずか二十石・・・噂通りのケチですね、家康w

その後岩松氏は細々と旗本として暮らしていきます。
守純の孫である秀純の代には、新田宗家として立てて、交代寄合の格式を与えながらも岩松氏には姓を新田と名乗る事は認めませんでした。
後に岩松氏の禄高も上がりましたが、たった百石・・・・(苦笑)
ケチは類題受け継がれたのか、それとも「岩松氏だけはつけ上がらせちゃいけない」という伝承でもあったんでしょうか。

交代寄合というのは、石高1万石以下でありながら、大名と同等ないし準ずる待遇を受ける旗本を表します。
義務ではないものの、参勤交代等も行われていたそうな。
交代寄合の中には米良家のように別の大名家の下にありながら交代寄合の格式を受けるような特異な例もありますが、おおむね1千石以上の禄があります。
中には7000石ともうひと踏ん張りで大名じゃん!という家もあります。

そんな中で幕末まで120石で過ごした岩松氏
守純が系図を「はいはい♪」と出していれば、こんなことにならなかった・・・かも?

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