岩松尚純 〜岩松氏、没落の序章〜


寛正二年〜永正八年 東毛の名門、岩松氏の出自。

岩松氏は正真正銘、源氏の血を汲みんでおり上州でも一、二を争う名家です。
惣領である新田氏が没落し、新田荘を分割相続した世良田氏も歴史から消えてしまった後は、まさに独壇場。
「新田岩松氏」とも称され、新田氏の直統のような位置づけで見られていた事でしょう。

さて、その岩松氏は途中分裂したりもしますが、上州内でも地位は確固とし新田荘を中心に支配地を固めていました。
新田氏の系列とされながらも、系図をたどると新田義重の孫娘と足利義純(足利義兼の庶長子)の間にできた子が岩松家祖である岩松時兼であることから、室町時代は足利一門としての格式を誇りました。

そんな名家に生まれた尚純ですが、生まれたころは関東は公方家と管領家、それを取り巻く諸大名により騒擾の極みにある時代でした。
尚純が生まれた時の岩松氏の当主は、尚純の祖父である家純でした。

尚純が表舞台に出始める頃には、すでに父の明純は祖父である家純と対立関係にありました。
祖父家純は、分裂していた岩松氏を再統一するほどの英傑であったため、家中は家純の意向が強かった事でしょう。
結果、父・明純は勘当され尚純も共に上杉顕定を頼り鉢形城(武蔵国)に落ち伸びます。

しかし、家純には他に子がなく岩松氏を断絶させるわけにはまいりません。
そこで重臣である横瀬国繁・成繁親子が関係者間を奔走した結果、孫である尚純を許しに岩松氏の家督を継がせる事になりました。

絶対的な権威のあった岩松氏中興の祖である家純が死去すると、明応三年に尚純は岩松氏の家督を継ぐ事となりました。
これで、岩松家中も安泰か・・・とはならないのが戦国時代。
今度は横瀬氏の台頭を疎ましく思う他の家臣たちが、明純を引っ張りだし尚純も取り込んで横瀬氏の排除を企てます。
尚純が当主となった翌明応四年、ついに尚純と横瀬親子が衝突
このころは横瀬親子と言っても、国繁・成繁ではなく、成繁・景繁に世代交代しています。

尚純は金山城を攻めますが天下の名城である金山城を落とす事はできず、逆に形成がどんどん不利になっていきました。
最終的は古河公方である足利成氏の仲介が入りました。

結果は尚純側の敗北を意味するものです。
仲介の結果、尚純は岩松氏の家督を子の昌純に譲った上で、下野佐野に隠居させられました。

その後はさしたる事績もなく、連歌に熱中したりしながら、ひっそりと人生を終えました。享年五十一。
永正六年には、当時著名だった連歌師宗長と連歌会を催した記録が残ります。

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