岩松昌純 〜三代に渡る抵抗〜


文明十七年〜享禄二年 東毛の名門、岩松氏の出自。

岩松氏は正真正銘、源氏の血を汲みんでおり上州でも一、二を争う名家です。
惣領である新田氏が没落し、新田荘を分割相続した世良田氏も歴史から消えてしまった後は、まさに独壇場。
「新田岩松氏」とも称され、新田氏の直統のような位置づけで見られていた事でしょう。

横瀬氏の家中での専横が目立ち始める文明年間に、岩松氏当主の孫である尚純の嫡男として誕生しました。
当時の岩松家当主は岩松家純でしたが、明応三年には父尚純が紆余曲折あって当主の座に付きます。

しかし翌明応四年に、横瀬景繁と岩松尚純がついに激突。
古河公方の仲介があり、尚純が当主を隠居し、嫡男である昌純が岩松家当主となる事で双方矛を収めます。
事実上の岩松氏の敗北です。

はっきりした年代は分かりませんが、明応四年にこの決着がついたとするならば、昌純が十歳前後の事となります。
もはや事実上の横瀬氏の傀儡でしかない、新当主の誕生でした。

東毛の雄である岩松氏は、ここで横瀬氏に乗っ取られてしまったも同然です。

そうした状態のまま、30年近くもたってしまいます。
岩松氏は金山城を本拠に、東毛一帯を支配ないし影響下に収め、隣国下野の足利地域にも影響力を行使します。
そして、周辺国と摩擦を起こしながら徐々に戦国時代は過ぎていきます。

この間、昌純について確たる事績はあまり詳らかではありません。
傀儡は傀儡らしくじっとしていたのでしょうか。

しかし、当主になったのが十代の早いうちとって、30年もたてば既に壮年
家中にも横瀬氏の専横を苦々しく思う連中も多数いたことでしょう。

昌純はついに立ち上がろうとしました。
横瀬氏の当主は景繁から、その子泰繁に変わっていましたが、専横状態は変わっていません。

昌純は泰繁の暗殺を計画しますが、途中で事が露見してしまい、逆激を受けてしまいます。
攻められた昌純は、自刃したとています。

結局、何も成せず昌純は傀儡のまま一生を終えてしまいました。享年四十五歳

岩松氏の当主は、昌純の弟である氏純が跡を継ぎます。
・・・横瀬氏が選んだ新しい当主の誕生でした。

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