金山城


太田市のシンボルとして市民からも愛されている金山。
金山のほぼテッペンにあるのが金山城です。
類似の名前の城は全国に(県内にも)あるので、この金山城は「新田金山城(または太田金山城)」と呼ばれています。
連郭式山城として、その威容は正に難攻不落にも見えますが、まぁ何度か落城していますw

もとは、新田氏の一族である岩松家純により文明元年に築城されました
場所柄か、新田義貞築城説はありますが、発掘調査の結果では、時代が異なるようです。

その後、岩松氏の家臣であった横瀬成繁は下克上し、金山城を奪った上で姓を「由良氏」に変更。
小野であった氏もこれを機に「源氏新田流」と偽るようになりました。
まるで、とくが・・・・
上州の国人としては良くある話ですが、由良成繁は上杉・武田・北條の間を行ったりきたりしますが最終的には北條氏に組する事となります。
そうしているうちに、五度にわたる上杉謙信の関東計略の際の城攻めをすべて防いだりもしています。さすがの名城!
その後、由良成繁が隠居し、嫡男国繁の代に事件が発生しました。
北條氏政は奇計を弄し由良国繁を小田原に監禁し、金山城には家臣の清水正次を城代として派遣・支配します。
そうこうしているうちにも、小田原の役が始まりました。
国繁の真意は豊臣方であったのか北條方であったのかは定かではありませんが小田原から出れない以上、意思表示も難しい事でしょう。
金山城は前田利家・上杉景勝らの北陸方面軍団により落城しました。
由良氏は国繁の母による秀吉への説得活動により存続を許され、江戸末期まで旗本として存続しています。
金山城は、この小田原の役での落城後、廃城となったそうです。

なかなか全国的には知名度も低く、信長系ゲームでもさほど評価もされない由良氏ですが歴史には国人としてそれなりの重みを感じますね。

 山全体を上る必要はなく、車ですいすい上に上がれます。駐車場も整備されています。駐車場から城へ行く道の途中にある案内看板。
 これがスタートライン!道そのものは整備されているので登り易いですが距離が・・・
 西矢倉台西堀切
 西矢倉台下堀切
 西矢倉台通路
 馬場下通路。立派な石垣が見えてきました。
 馬場下通路その2
 先の方に見える櫓が展望台です。
 展望台から見た風景
 馬場曲輪
 月の池。戦国時代でも滾々と水が沸いていたようです。
 大手虎口。
 大手虎口その2。難攻不落な感じですね、石垣の重厚感がなんとも。
 大手虎口北下段曲輪
 大手にある炊事場の復元模型
 日の池。こちらも篭城側としては重要な施設ですね。
 本丸跡にある城址碑。本丸跡にはいろんな看板がありますw
 本丸にある新田神社。祭神はもちろん新田義貞
 新田神社の横に控える御嶽神社。祭神は国常立神、大己貴神、小彦名神

さすがに山城だけあって、攻めがいがありますねぇ。
ちょっとしたハイキングくらいの気分です。
夏の暑い盛りは辛いかも・・・

ですが、関東では珍しい戦国中期からの石垣を多用した城ですので必見ですね。
整備・復元状況もなかなかすばらしいものがあり、太田市の意気込みが感じられます。

金山城は日本100名城にも選定されております。
上杉謙信も攻略できなかったことから「関東七名城」の一つに数えられています。

関連ホームページはこちら↓
太田市HP


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