横瀬成繁 〜下剋上、甚だ近し!〜


生年不詳〜文亀元年

横瀬氏は武蔵七党のうちの猪俣党の流れを組み、小野篁の末裔という事で小野姓を自称していました。。
それはつまり、孝昭天皇の子孫という事なんですけど、どうなんでしょうね。
途中、婿養子に新田義貞の孫を迎えたという家伝を元に、後には新田氏を自称することとなります。

成繁は横瀬国繁の子で、父の後を継ぎ岩松氏の筆頭家老となります。

横瀬氏の当主が国繁のころは、岩松氏の当主が家純でベストコンビで東毛の雄として岩松氏は隆盛を極めました。
しかし、家純の晩年、後継ぎ問題でゴタゴタしたことがきっかけとなり、壁書三カ条の執行者として父国繁が氏名され、岩松氏内部における横瀬氏の執政権が確立します。
長享二年には父国繁が死去し、成繁が横瀬氏の当主となるとともに、岩松氏の筆頭家老となります。
(国繁は存命であり、家督を相続しただけという説もあります)

数年後の明応三年、岩松家純が没っします。
過去の約定どおり、家純の孫である岩松尚純が岩松氏の当主となりました。

家督相続に至るゴタゴタや、横瀬氏の家中での権力の増大を目の当たりにしてきた尚純は岩松氏の家督を相続する以前から横瀬氏排除を狙っていたのでしょうか。
翌、明応四年には尚純や尚純の父で強制的に隠居させられていた明純らが挙兵します。

成繁はこの時、草津温泉に湯治に出かけており良純・尚純らは留守を狙って攻めよせたそうです。
この時に金山城を攻めたのは下野佐野庄の佐野小太郎であるといわれています。
尚純の細君は佐野氏の娘であるつながりからでしょうか。

これが「屋裏の錯乱」です。

この乱は、単純に明純・尚純父子と横瀬氏の「お家争い」という話だけではありませんでした。
東毛新田荘の支配権に関して、横瀬氏の主導権を認め盟主とする派閥と岩松氏の復権を目論む一派の争いです。
なおかつ、その背後には山内上杉(岩松明純のバック)と古河公方(横瀬氏のバック)の影響力の範囲争いもうかがえます。

当初は優勢に思えた反横瀬派でしたが、成繁は息子である景繁とともに金山城で持ちこたえ続けます。
最終的に古河公方(当時は足利政氏)による仲介が入ります。
結果として尚純は佐野荘に隠居し、岩松氏の後は尚純の子である夜叉丸が継ぐ事になります。
この夜叉丸が、後の岩松昌純です。

横瀬氏最大の危機を脱した成繁は、岩松氏の実権を奪い専横を強めていくのでした。

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