長野業政 〜国に生まれ、国に死す〜


長野業正とも(←最近はこちらが主流なようです)

延徳三年、長野憲業の子として上州に生を受けています。
(一説には長野信業の子とも)

上野長野氏は、本姓を在原氏とされ在原業平を遠祖に持つと言われます。
「業」の字が代々続いているのも、そういう事なのでしょうか。

上野長野氏は、現在の群馬県の南半分あたりに土着した武士ということになりますが、その後に厩橋長野氏、箕輪長野氏、鷹留長野氏等に分割していきます。
このうち、厩橋長野氏は東上野の国人の横瀬氏等との構想で次第に疲弊し、後の長尾景虎の越山により本拠である厩橋城が接収され、その後、歴史から姿を消しました。
鷹留長野氏は、箕輪長野氏とともに西上州で武田氏と戦い、ともに滅んでいます。

長野業政が属していたのは、箕輪長野氏です。
本拠地は現在の群馬県の県央に位置する高崎市にある箕輪城です。
平成の大合併の前は群馬郡箕郷町でした。

いわゆる「国人」という階層の独立領主で、戦国大名のように国をひとつ持っているわけじゃありませんが、主城及び周辺の砦等を押さえ近隣一帯を当地する「お殿様」という事になります。

そんな上州における代表的な国人の一人である長野業政が歴史に燦然を名を輝かすのは、晩年の頃です。
決して大器晩成というわけではなく、壮年の頃から活躍を示す話はありますけど、有名になるのは晩年の出来事がきっかけ。

・・・

有名といっても最近の話で、郷土史研究家や応仁の乱以降の関東騒乱の歴史を研究する立場の人たち以外にはなかなか知名度は上がりませんでした。
あれですかね。
家庭用ゲーム等の戦国時代モノの中で「あれ、上野になんか微妙に能力のある人物いるぜ?」みたいな感じで広がったような感じが・・・

国人領主ってのはそういうもんでしょうけど。
昨今の歴史ブームとかがいかに表面っツラだけのものかってのがわかりますね、こういう考察すると。

さて、その有名になった出来事ってのは、なんと言っても西上州を甲斐武田軍の手から守り抜き、独立不羈を維持し続けたという事です。
野心に燃える武田晴信の軍勢を五度(四度とも六度とも)にわたり跳ね返し、晴信をして「業政が上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と言わしめる程。
心底武田ファンな人の中には「武田信玄が長野業政に勝てなかったのは捏造」という人もいるようですが、講談本であるとか軍記物であるとかだと、少なくとも以下の四つの戦いは「確定」しているようです。
史実的なものではなく、あくまで「お話」として・・・ではありますが。

(1)弘治三年、いわゆる「瓶尻(みかじり)の戦い」
武田太郎義信を総大将とした一万の兵が碓氷峠を越えて西上州に進出。
長野業政は西上州の姻戚関係にある諸将を結集し二万の兵を集める瓶尻にて応戦。
当初は上州勢が優勢に進めるも諸将の足並みがそろわず撤退するも箕輪城で篭城し、武田軍を撤退させる事に成功。

(2)永禄元年
前年の敗退を受け、今度は晴信自らが二万の兵を率いて碓氷峠を越えて武田軍が来襲。
業政軍は夜討ち・朝駆けを駆使して散々に武田軍を悩ませた後に火攻めにより武田軍の兵糧を焼き討ち、武田軍を撤退させた。

(3)永禄二年
懲りない(笑)晴信は今度は西上州の諸将の連携を断つべく各個撃破に出るべく旗下の勇将に安中城・倉賀野城・和田城等を攻めさせます。
箕輪城から援兵を率いて駆けつけた業政は晴信本陣を奇襲し、さらに追ってくる武田軍を伏兵にて蹴散らして損害が大になった武田軍は撤退しました。

(4)永禄三年
またも西上州に攻め込んだ武田軍。業政は今度は最初から篭城策を取り長対陣なのか季節が悪かったのかはわかりませんが、武田軍は飢えと寒さに苦しんだそうです。
そんな中、安中城主安中忠政が武田軍の補給路を襲撃し、混乱の最中に業政が城中から出撃し総攻撃。被害甚大のため武田軍撤退。

「あの武田軍を何度も追い返した」という事で業政の評価は一部で上々ですが、その他にも評価が高い点があります。
それは「比類なき忠義者」という点です。

もともと長野氏をはじめ上州の国人衆は関東管領である上杉家の旗下として上州を治め各地を転戦していました。
ところがいろいろあって、当時の関東管領上杉憲政は居城平井城を捨てて越後に遁走します。

通常なら、ここで上野内で争いが起きたり、周辺国(北条や武田)が上野を掠め取るために侵略したりします。
(まぁ、実際来ましたけど)
そうして、北条に組するなり武田に鞍替えするなりすれば、本領安堵となり国人衆としても一安心なわけで、実際に東毛の由良氏等は北条寄りになったりもするわけです。

しかし、長野業政は関東管領家への忠義を失わず、上杉憲正が越後に逃亡した後も西上州箕輪衆を束ね、根気強く武田・北条と戦いながら関東管領家復権を待ち続けます。

そして、ついにその時が来ました。

永禄三年五月、越後を束ねる長尾景虎は、勢力伸張の著しい北條を討伐するために三国山脈を越えました。
ただ越山するだけでなく、関東管領上杉憲政を伴っての軍事活動です。
形としては、関東管領の権威復活を目論み、関東管領上杉憲政の要請により・・・という事でしょうか。
上野国に入った景虎は、北條方として上州にて勢力を張っていた国人衆等を討伐しつつ、厩橋城にて関東諸将に大号令をかけます。
その際に長尾方についた諸将の一覧が「関東幕注文」という文書に記されています。

この関東幕注文においては、長野業政率いる箕輪衆は、白井長尾氏、総社長尾氏に続き3番目に名を連ねています。
長尾景虎は当然長尾氏ですから、同系の白井・総社長尾氏がこれに参加するのは、考えてみれば当たり前の話ですから、箕輪衆がその次席に名を連ねている事からみても相当早くに長尾支持を打ち出していたであろう事がわかります。

結果として、この北條討伐軍は10万近い兵力が結集されたらしく、一時期は北條氏の拠点である小田原城を包囲しました。
しかし、小田原城を攻め切れず包囲を解き解散。
小田原城の堅固さに勝てなかったというよりは、長期対陣で無理がたたった関東の諸兵の一部から不満が出ていること、並びに北條氏と縁戚で甲相駿同盟を結んでいる武田氏に対して北條氏康が援護射撃を求めた事による影響だと思われます。
事実、この小田原攻めに前後して武田晴信が北信濃に軍を進め、海津城を気づいており、本拠地越後が脅かされかねない自体となりました。

小田原城の包囲を解いた後、鶴岡八幡宮にて長尾景虎の関東管領就任式が行われ、景虎は現管領上杉憲政の養子となり姓名を上杉政虎と変える事になりました。

上杉政虎が越後に引き上げた永禄四年、長野業政は箕輪城で息を引き取りました。
生年に複数の説があるため、享年は七十一歳、あるいは六十三歳。

遺言は「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」であると関八州古戦録という江戸時代に成立した軍記物に記されています。
箕輪城及び西上州箕輪衆の盟主は、嫡男である三男の長野業盛が継ぐこととなりました。
当年とって十四歳。
なお、長男に吉業という息子がいたようですが、関東管領上杉家の没落の直接の原因となった河越夜戦の際に戦死したとされています。

この業盛も父に似て智勇に優れていたようで、この後に武田軍の侵攻を跳ね返していますが、最終的には永禄九年に武田軍の猛攻に耐え切れず箕輪城は落城。
業盛は城内で自刃、子孫はその後に武田氏→井伊氏の家臣として現在まで続いているようです。
彦根に移った井伊家の次席家老は、長野氏が代々継いでいたようで、幕末の英傑井伊直弼のブレーンであった長野義言もこの長野氏の血脈を受け継いでいる様子です。

・・・と、ここまでは、まあ一応江戸時代に成立した軍記物を中心に伝わる話。
それなりの真実性を踏んでいるものの、最近の実証的な資料研究等においては、疑問符が付くものも多いようです。

例えば、武田氏の侵攻を何度も跳ね返したという話。
各種軍記物によれば、瓶尻の戦いのあった弘治三年から武田氏の西上州侵略が始まっている事となっていますが、寺社への起請文や確認できる資料からは、武田氏の西上州侵略の始まりは永禄年間ではないか?という説もあります。
まあ、だとしても、実際に箕輪城が落城したのは永禄九年の話ですから、永禄元年から始まったと仮定しても都合九年間を必要としているわけですから、箕輪衆の抵抗振りは、やはり当時としては周辺の住民の記憶に残っていた事でしょう。

また、関東管領家の没落にもめげず忠義を尽くしたという点も、疑問が出てくるものです。

当時の上杉憲政は、河越夜戦に敗れたとはいえ関東管領家の威光は後の長尾景虎の越山・北條攻めの際の関東諸兵の結集状況を見ても劇的に衰えたとも言えず、また上杉氏・北條氏ともかなり後期まで足利公方を名目上擁立している事から、いわゆる「権威」というものは結構長持ちしていたと思われます。
この後、信濃の笠原氏の救援要請(武田に攻められて)を受けて金井秀景を大将とする約2万の軍勢を派遣し碓氷峠を越えさせ救援に向かわせるなど、関東管領上杉家の威光は陰りはあったとして、極端に衰えたとまでは言えないような状況下にありました。
この戦いは「小田井原の戦い」といわれますが関東管領軍は3000人近い損害を出して撤退します。
敗れたとはいえ、河越夜戦敗北後にこれほどの兵力を参集させることができるだけの権勢は、いまだに保有していたということです。
上州は石高はそれなりに高そうですから、兵力動員数もでかいんでしょうけど・・・
なお、軍記物によると、長野業政はこの戦には反対していたといわれています。

そんな中、渦中の北條氏の圧力がいよいよ上野国近辺に及び、御嶽城が落城すると、上杉憲政は平井城を捨てて、上越国境付近に逃亡します。
(一般的にすぐさま越後の長尾氏を頼ったようなイメージがありますが、実際は沼田氏等を一時頼っていたようです)
北條氏の実質的な上野支配の構図が出来上がりつつある中で、箕輪長野氏は安中氏などとともに間接的に北條の上野支配を受け入れる形になります。
関東管領が戻ってくるまで、西上州にて孤軍奮闘領地を守り抜いたというイメージとは少し異なるようです。

話の前後はありますが、御嶽城落城で上杉氏の動揺・北條氏の圧迫により、西上州の国人集が離反したので、上杉憲政が平井城を退去したのか。
それとも、上杉憲政が退去したから、寄る辺なき国人集はやむを得ず北條に靡いたのか。

純粋に政治力学的な感じからすれば前者なんでしょうけど・・・ね。
但し、前述もしましたが、長尾景虎が上杉憲政を奉じて越山し、厩橋城まで来た時は、一目散に参集しています。
この辺が、やはり長野業政の限界であり、「国人」のままであり「大名」にはなれなかったという限界線かもしれません。

「国人のまま」という状態についての例をもう少し探すならば、例えば、長野業政には12人の娘がいたとされ、それぞれ上州内の国人等に嫁がせて一門衆のような結束を誇る婚姻政策を推進したり、上野守護代である長尾家(白井長尾家)の長尾景誠が暗殺された際に後継者選びに介入し長尾家の実権を握ったに近い事を行ったりしています。
しかし、上州全土の国人すべてを旗下に収めようとはせず、結局は西上州の「箕輪衆」を束ねる、いわば「自治会長」みたいな位置付けのままで武田軍の侵略を防ぎ続けました。

大事なところは「上州全土の国人すべてを旗下に収めようとはせず」というところです。
実力的にできなかったのかもしれませんし、特段積極的にそう動いた形跡もないということです。

どちらにせよ、あくまでも「関東管領家」の旗下にある西上州の国人集の一人のまま、長野業政は没します。

「信長の野望」シリーズでは、武将風雲録以来レギュラー出演していますが、各シリーズの能力値を均してみても、武力、統率、智謀等は高いものの政治力はそれほど目立って高くありません。
隠れパラメータである野望・野心はさほど高くなく、義理堅い設定になっています。
この辺は、軍記物の影響も去ることながら「国人とはかくあるもの」ということを如実に表しているような気がしてなりません。

最後になりますが、長野業政を語る上では欠かすことができないエピソードを紹介します。
(知っている人には有名すぎてアレですけど、ここは定番ということで)

真田幸隆という有名な武将がいます。息子や孫の方が有名かもしれませんが。
もともとは信州上田の土豪だったようですが、村上義清との争いに破れ上州に亡命(?)していた時期がありました。
ちなみにこの時期は、まだ「幸綱」と名乗っていたようです。
その際、長野業政の元に身を寄せていたようなのですが、故郷信州に武田氏の侵略の手が伸びてくると、武田に仕えれば故地回復の可能性があると踏んでかどうか、業政の元を去る決断をします。
友人である山本勘助の紹介のようです。
すでに客将のような扱いになっていたのか、それともこうなるとは考えず既に長野氏に仕えていたのか詳しい事はわかりませんが、密かに上州脱出を企てます。
一計を案じた幸隆は「具合が悪い」と言ってしばらく登城を控えるようになります。
すると、何を察したか業政は「今日明日のうちにも甘楽峠(鳥居峠のことか?)を越えて良薬を探しにいくとよい」と使いを寄こし、馬を幸隆に与えます。
不審に思う幸隆に対し、業政は出立を急かし、幸隆はその夜に信州に向け出立します。
脱出は無事成功し、峠に差し掛かる手前にて、後ろから家具や妻子、家僕等がやってくるではありませんか。
急な脱出なのでそういったものは箕輪においてきたにもかかわらず・・・です。
不審に思い妻に尋ねると、夜半にもかかわらず出立後に業政の家臣が幸隆の妻の下に訪れ書状を託したそうです。
叱責の文言がちりばめられるかと思ったその内容に、幸隆は驚きます。
「武田晴信はまだ若いが優秀な弓取りだ。だが箕輪に業政がいる限りは、碓氷川を越えて馬に草飼わせようと思ってもらっては困る」
すべてを見透かされた幸隆は、しばし呆然として立ちすくんだといいます。

ついでにもう一個。
永禄四年、業政は病にかかり家に籠もっていたが、ある日「そろそろ客があるだろうからその用意を」と家臣に命じたそうです。
すると羽尾(現群馬県長野原町)にいた幸隆が業政をたずねてきました。
幸隆と業政は幸隆と色々話をしている中で、業政が唐突にこんな話を切り出します。
「貴公が箕輪にいた頃は、だれも貴公の言を用いなかったが、武田家の謀臣になってからは信濃を切り取ってしまった。この上州もいずれそうなるだろう。私ももう余命もない。同じ取られるなら、他人より気心の分かる貴公に渡したい。そこで吾妻から繋がっている利根を計略するとよい。」
幸隆が「それは誰の所領ですか」と尋ねると業政はこう続けます。
「私の養女の夫で沼田上野介景康(顕泰)という者で、色に溺れるような思慮のない者ではないが、最近金子美濃守とかの姪に産ませた子を平八郎景義と名乗らせ寵愛し、嫡子景久を廃嫡しようとしている。このままでは沼田の家もそう長くはないだろう。私がやれば簡単だが我が子には難しそうだし、我が寿命も尽きそうなので貴公に進上しよう。」
と答えたそうです。
聞いた幸隆は改まって業政の好意に感謝したそうです。
そして「では、沼田へ行き方便を駆使して見事奪い取り、いつかご覧に入れましょう」と告げて箕輪を辞去し、沼田に向かったそうです。
実際の歴史で行くと、幸隆の子供である真田昌幸がこの後の天正六年に当時は北條領であった沼田城や名胡桃城等を攻略しています。
これは、既に謀略を張り巡らしていたから・・・らしいのですが、まあ実際のところはどうなんでしょうかね。

上の二つの逸話は、幕末〜明治初期に成立した「名将言行録」という書物にある話なのですが、まあ、そういうわけで真偽のほどは斟酌してください。

まだまだ研究途上の長野業政
数年前の大河ドラマ「風林火山」では、一昔前に息子に先に出演(大河「武田信玄」で保坂尚樹が業盛で出演)されましたが、ついに大河デビューしました。
しかも、何話にもわたって出ており、小市慢太郎さんが演じておられました。

これからもどんどん知名度が上がっていくことを期待するとともに、自分からも情報をたくさん発信できれば言いと思います。

「上州の黄斑」長野業政に栄光あれ!

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