新田義貞 〜源氏最後の闘将〜


最近ではほぼメジャーでは無くなりつつある建武期の名将、新田義貞

戦前では楠木正成に並び忠臣として描かれ、稲村ケ崎での逸話は有名。
最近の若い人は稲村ケ崎と言っても稲村ジェーンくらいしか思い出さないだろうか?
(それも結構昔の部類に入る時代に来たかもしれないけど・・・)

歴史に埋もれつつあるこの人物について小生の想いを語ってみます。
決して、結構好きだった根津甚八さんが役者引退を表明したタイミングだからというわけではありません。
(根津さんは大河ドラマ太平記で義貞役でした)

「歴史に名高い新田義貞」

群馬県の郷土文化カルタである「上毛かるた」の「れ」を飾る札です。
札絵は、騎馬に乗った勇壮な義貞が描かれています。
http://www9.wind.ne.jp/fujin/gunma/karuta/kaisetu/ra.htm

郷土の偉人であり、太平記前半の重要人物として、群馬県では今でもその名を知らぬものはいない・・・・と思います。
群馬では上毛カルタを地元文化教育の一環として取り入れている場所も少なくないので、名前くらいは群馬県人なら知っていると思います。

全国的な知名度としては、戦後では全くダメでしょうね。

戦前は、皇国史観の関係もあるのでしょうが、足利尊氏は天皇親政をぶち壊した大悪人ですから、尊氏に敵対する立場であった義貞は、相対的に「天皇陛下のために戦った名武人」という評価がありましたし、今の子供は殆ど知らないでしょうが「稲村ヶ崎」は唱歌にもなってましたから、現在では想像もつかないほどに知名度はあったのでしょう。

簡単な経歴等は省きますが、小生の思っている点を交えながら義貞を紹介したいと思います。

義貞は正安三年に上野国の新田荘(現新田郡近辺)に生まれました。
源義家から九代、源宗家、足利家と並んで武家の棟梁清和源氏の血を受け継ぐサラブレッド・・・とは行きませんでした。

鎌倉に幕府が構えられてすでに百有余年、同族足利氏は賄賂や血縁を用いて北条得宗家と密接な関係を結び、鎌倉の地に屋敷を構え北条家と同じ程度の扱いを受ける程の名家となっていました。

一方、新田氏は途中で惣領権も支流の世良田家に持っていかれ、新田の名はあるものの、領地も少なく困窮していたようです。

原因はいくつか有るのですが、遡れば、鎌倉に府を構えた源頼朝と同時代の新田宗家である新田義重がかなりのウェイトを占めています。

頼朝が打倒平家に立ち上がっても、すぐに協力しなかったり・・・まぁこれは、保元年間に当時新田荘周辺の武力事態(足利氏や秩父氏との抗争)に勝利し結構な勢力があったので、頼朝が下田らへんで声上げててもなんのこっちゃ?という面もあったかと思いますが。

また、義重は、武田信光や源義平に娘を嫁がせ縁戚関係を強めている事が「源氏の棟梁」を狙う頼朝には、あまり良いイメージを与えなかったのかもしれませんね。
まぁ、義平は頼朝が挙兵する前に敗死してますけど。
・・・と言いつつ、ここもポイントだったり(笑)

義平に義重が娘を嫁がせていたのは事実なようで。
名前は「祥寿姫」
でも、義平は平治の乱で敗退し斬首。祥寿姫は未亡人となり義重の下に帰ります。

そして、その未亡人に頼朝が横恋慕したらしく、頼朝は部下に命じて祥寿姫にラブレターを送ったそうです。
当の祥寿姫はノーリアクション
そこで頼朝は義重に「娘さんを側室にください」と言ったそうな。
なんちゅー強欲(笑)
実際、頼朝挙兵時に上記のとおりあまり積極的に参陣しないで、後々になって頼朝の前に赴いた義重は、頼朝からあまり評判は良く無さそう。

だが義重は唯々諾々と未亡人となった娘を差し出さず、あろうことか娘を別の男性に嫁がせてしまいました。
これは、頼朝の妻である北条政子の怒りを畏れたのではないかと言う事です。まあ、確かに怖いもんね、政子さん。

で、結局、なんか浮気疑惑は残っちゃったし、余計なしこりは出来たし、欲しい女性は手に入んなかったしってことで、頼朝は義重を冷遇したとかなんとか。

ま、そんなこんなで新田氏は嫡流でありながら、振るわなかった。

名門武家の名跡はあっても、本当に名跡だけ。
実情は他の下級武士となんら代わらない生活を行いながら暮らしていました。
もしかしたら、自分で鋤鍬を持ち、畑を耕していた可能性すらあるでしょう。

しかし、そんな新田家にも転機が訪れます。
幕府政治に反抗した都の後醍醐天皇が幕府追討の命令を全国の武家に発します。
そんな朝廷に「何するものぞ」と足利家嫡男の高氏に大軍を預け派遣する時の執権北条高時。

その隙をついて挙兵したのが、われらが義貞!

時は正慶三年五月、上州は生品神社で一族郎党を集め、幕府追討に打って出ます。
最初はわずか150騎だった軍勢も利根川を越え鎌倉に近づくにつれ増えつづけ、足利高氏嫡男千王丸(後の足利尊詮)と合流し、一気呵成に鎌倉を落します。

ここで有名なのは「稲村ヶ崎の太刀」
三方を山に囲まれた鎌倉はまさに天然の要害であったのですが、義貞が家宝の黄金造りの太刀を投じ竜神に祈願するとあら不思議!潮が引き、攻め込むための海岸が現れたではありませんか!
(まあ、ちょっとノリで書いてみましたが、義貞が潮の満ち干きを計算に入れて攻め入る時間を工夫したという話が真相なのでしょうけど)

生品神社での挙兵から僅か二週間の快挙。
これにより鎌倉幕府は事実上滅亡します。

しかし、鎌倉陥落後、手柄を横取りし、欲しい侭に振舞う足利方にあきれた義貞は戦勝報告もかねて都に向かいます。

この後、後醍醐天皇の主導により「建武の中興」が始まります。
最近では「建武の新政」のほうが馴染みやすい名称でしょうか?

建武の中興という呼び方は戦前から使われており、天皇親政である「正しい政治」が復活したことから「中興」という呼称にしたのでしょう。

しかし、これは公家主導のいわゆる御所政治であり、頼朝が起こした「武士の武士における武士のための政治」からはかなり異なる形です。
武士達から見れば、征夷大将軍もおかず、全てを公家が判断し公家が採決するような政治など当時の武士階級の連中の大半から見れば反動以外の何物でもありませんでした。

ちなみに、義貞は鎌倉攻めの功により左兵衛督・武者所の長となります。

しかし、時代はなかなか安定しません。

建武二年(1335)には信濃にて北条の残党が高時の遺児・時行を擁立し、挙兵。
義貞が陥落せしめた鎌倉を再占領します(中先代の乱)。

鎌倉を守っていた足利方は何してたんでしょうかね?

この中先代の乱に対し、足利尊氏(後醍醐天皇より字を賜り改名)は後醍醐天皇の許可のないまま討伐に向かい、見事鎌倉を奪還。
やはり、足利尊氏は戦上手なんでしょうね。

鎌倉に居座った尊氏ら足利方は、武家の政治を行うために勝手に論功行賞をはじめます。

さらに尊氏は、こともあろうに義貞を君側の奸であるとして義貞の排除を後醍醐天皇に上申しますが、これに後醍醐天皇は激怒し義貞に尊氏追討令を出しました。

尊氏は、後醍醐天皇を怒らせた事に恥じ、出家してしまいました。
(だったら最初から勝手に動くなっつーの・・・とはいいつつも、尊氏・直義兄弟による武家の掌握の為の戦略というより政略と見る方が正しいかも)

足利方は、やむなく尊氏の弟直義を大将とし、官軍と戦おうと鎌倉より出兵しますが、後醍醐天皇の息子である大塔宮(護良親王)を報じた官軍は矢作川や手越河原の合戦において足利方の軍勢を撃破し、そのまま東海道を鎌倉に向け驀進します。

僧侶になって反省すれば許してもらえると思っていた尊氏は、周囲の説得や後醍醐方が足利撲滅に本気なのを感じ取り遂に尊氏本人が立つ事に決めました。

太平記等の朝廷寄りの話によれば、直義や高師直ら家臣が「尊氏は許さないよーん by後醍醐」という偽文書を用いて無理やり尊氏を引きずり出したという話もあります。

鎌倉から出てきた尊氏に、義貞は箱根で撃破されてしまいます。戦では尊氏に一日の長があったようです。

京都に戻った義貞は、今度、追って来る足利方の軍勢を北畠顕家率いる奥州鎮守府軍や楠木正成らと連携し逆に足利軍を追っ払います。
勢いに乗った義貞率いる官軍は、なんとしてでも京都に入ろうとする足利軍を散々に打ちのめし九州まで逃げさせてしまいます。

義貞軍は更に九州まで追撃し尊氏の息の根を止めようとしますが、今度は播磨の赤松円心に阻まれてしまいます。

もしかして、戦下手・・・・・いや、これは触れては成らないネタかもしれない・・・

ちなみに、この場面では太平記によると後醍醐天皇より今までの功績に対する報償として「勾当内侍(こうとうのないし)」という女官を下賜された義貞は、勾当内侍の美しさに現を抜かし、勾当内侍との別れを惜しんだため、軍を発するべき時期を失ったとされています。

英雄に美女は付き物・・・・・と言って良いかどうかはわかりませんが、「なぜ、義貞は軍を出しそびれたのだろう?」という疑問から考え出された創作だとは思いますが、実際に追撃戦のタイミングを逸しているわけですから、なんともいえませんね。

やがて、九州で勢いを盛り返した尊氏は再度京都に向かってきます。
それを迎え撃つべく義貞も出撃しますが、またしても赤松軍の守る白旗城を落しきれず尊氏は遂に湊川に上陸します。
ここで義貞は正成と連携し尊氏を打つ予定でしたが、うまく正成と連携が取れず、また足利軍を防ぎきれずに敗走。

“大楠公”名将楠木正成は嫡子正行と桜井で別れを告げると戦場に走りその命を散らします。

この辺の話は、最近の若い人はほとんど知らないでしょうねぇ・・・・
ってか出陣が遅いのも、上手く連携とれずに敗れたのも、やっぱり戦下手・・・・?

湊川の戦いが終わり、忠臣名将楠木正成を失った後醍醐天皇は比叡山に逃げ、足利方と徹底抗戦を行うかとおもいきや、義貞軍が戦っている最中に、勢力的にジリ貧になりつつある現状から和議に入ろうとします。

こういう政略的な判断ができる公家方が、なんでああも簡単に政権を崩壊させることができるのかは、永遠の謎。

しかし、ここで天皇と足利方の和議が成立してしまったら、義貞が朝敵にされるのは自明の理。

義貞は、天皇の息子の恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に進みます。
このとき、恒良親王は既に後醍醐天皇から皇位を継承されていたという説があり、事実北陸の一部の文書には、南朝・北朝どちらでもない年号の文書があったりします。
細かい資料がまだ発見されていないのでなんともいえませんが、長慶天皇のような例もあるので、今後の研究が期待されます。

さて、金ヶ崎城に入った義貞一行ですが、その後も足利方の追撃に敗走を重ね、最後は越前藤島の燈明寺畷で戦死します。

流れ矢に当たったというのが、太平記での記述ですが、まあ、その辺は軍記物ですので、おしてしるべし
義貞を追って北陸を進んでいた勾当内侍が、義貞戦死の地にたどり着いたのは、義貞が死した翌日。
やがて勾当内侍はとらわれ義貞の魂を安らげるために剃髪し尼になりました。

一代の風雲児、新田義貞は高貴な血と何度もよみがえるカリスマ性を持ちながら真綿で首をしめられるように敗戦に次ぐ敗戦で勢力を落とし、そして自身の生命力をも削りながら37年の人生を閉じました。建武五年は閏七月二日の夕刻でした

最後に、タイトルに「源氏最後の闘将」とした理由ですが、全くの私見です。
賜姓皇族である源氏一門(特に清和源氏)は、後に平家と並ぶ武門の一族として征夷大将軍になる血筋を有しました。
八幡太郎義家を筆頭に武士として政権に食い込み、数多くの戦をこなしていく一族です。
その中で、真に「闘将」「猛将」といえる人は、鎌倉に頼朝の府が出来る辺りから、何人いたでしょうか?
鎌倉に頼朝が居座る前は、前九年の役から始まり、平治の乱にいたるまで武士の闘争の時代です。
義家をはじめ、悪源太義平や鎮西八郎為朝等の武人がおりました。

しかし、鎌倉以降、頼朝から数えれば、それぞれの源氏嫡流と称される人々は、小生が思うに基本的には「政治家」だと思います。

ああいう時代ですから、自ら戦場に出て戦う場合もあるでしょうが、やはり「政治家」や「司令官」であって、「武人」「闘将」ではないと思います。

義貞は「戦死」しました。
死に場所は「戦場」です。

室町御所で反乱軍に対して刀剣をふるって死んだ足利義輝のような「武人」もいれば、戦争中に陣内で没した足利義尚、軍役中に大阪城で倒れた徳川家茂のような例もあります。

しかし、義貞は畳の上で老衰死したのでもなく、檻の中で毒殺されたわけでも陣幕の中で病死したわけでもありません。

一武人として、戦う「もののふ」として、命を散せたのは戦場でした。
闘いに自らの身を投げ出し、闘いの中で自らの身を失った源氏最後の「闘将」

義貞をそう呼んでもなんら違和感はないと小生は考えております。

※このテキストは基本的に新田義貞寄りに書いてあります。

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