上杉憲政 〜悲運か非才か・・・〜


大永三年(1523)〜天正七年(1579)

関東管領。
上杉憲房の子。

憲政は、関東管領の家の息子として生を受けましたが、順当に管領職を引継いだわけでなく、享禄四年(1531)足利晴直を追放して、山内上杉家の家督を継ぎ、関東管領となりました。
初期の頃は、関八州を普く支配する関東管領としての威光もありましたが、次第に後北條氏の台頭等に代表される戦乱の時代の中で管領としての権威が落ち始めます。

憲政は、管領権威の復活を目指して各地で転戦しますが、天文十四年(1546)に河越の夜戦にて北條氏康にコテンパンに負けてから、凋落の度合いが激しくなります。

やがて、居城である平井城を北條家に落とされた憲政は、上野北部で散発的な抵抗を試みるも、結果的に三国峠を越え、越後長尾氏を頼りました。

この時の長尾氏の当主が若き俊英「越後の龍」長尾景虎でした。
景虎は関東管領の威光を復活させるべく小田原攻めを慣行しました。
関東の諸将が集まり十万とも言われる軍勢になりましたが、結局小田原城は堅牢であり落すに至りませんでした。

ここで、憲政は、関東管領の職及び係累を全て長尾景虎に譲り渡し、名を与え、長尾景虎は上杉政虎になります(後に謙信に改名)

憲政はその後、越後にて隠居生活を送りますが、上杉謙信が没し、その後継者争い(御館の乱)に巻き込まれ憲政は、上杉景虎(北條氏より養子に来ていた)に味方しますが、相手である景勝側の優勢となると憲政は和睦の使者として景勝の下へ向かう最中に、何物かによって暗殺されます。

享年五十六歳でした。

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