横瀬国繁 〜主に忠、御家に義〜


生年不詳〜長享二年

横瀬氏は武蔵七党のうちの猪俣党の流れを組み、小野篁の末裔という事で小野姓を自称していました。。
それはつまり、孝昭天皇の子孫という事なんですけど、どうなんでしょうね。
途中、婿養子に新田義貞の子を迎えたという家伝を元に、後には新田氏を自称することとなります。

国繁は父貞国とともに岩松家純に仕えていたと考えられます。
岩松家純は関東の騒乱に巻き込まれ、一時的に京に向かい幕府仕えていました。
亨徳三年に発生した享徳の乱の折に幕府の武将として関東管領を助けるべく関東に下向しました。
その時にはすでに父貞国とともに家純に仕えていたとされています。
康正元年に享徳の乱の家中に、貞国は戦死。国繁は横瀬氏の家督を継ぎます。

もともと横瀬氏は武蔵七党に連なる者であることからもわかるとおり関東が本拠地です。
新田荘横瀬郷に所領があることから横瀬氏と名乗ったとも言われています。
横瀬氏の棟梁として京の幕府に出仕していたか、関東の事情を汲んで家純を下向させるための側近として呼ばれたのでしょうか。

その後は家純の側近として戦に内治に活躍します。
長禄二年に、分裂していた岩松氏京兆家の岩松持国を古河公方側から関東管領側に寝返らせる交渉等で活躍したそうです
文明元年には金山城が完成し、岩松氏とともに入城。

岩松氏はその後の文明九年、長尾景春の乱の影響で家純の嫡男である明純を勘当、孫の尚純も金山城を出ていきます。
このままだと家純に後継者がいないため、国繁は関係者を奔走し、尚純を家純の養子として迎え入れる事で合意を得る事に成功します。

岩松家純の側近として辣腕ぶりを発揮したまま、国繁は長享二年に亡くなりました。

なお、明純が勘当された文明九年、家純は一族郎党を金山城に集めて「神水三カ条」という壁書を記します。
そして、その壁書の執行者を横瀬国繁としました。
この事が、岩松家における横瀬氏の執権確立とみなされたため、後の横瀬氏の台頭及び下剋上に繋がる事となりました。
「岩松家純・横瀬国繁」の間柄なら名パートナーだったかもしれない、もしくは尚純以降の当主には横瀬氏を御し得なかったという事でしょうか。


トップに戻る  / 人物に戻る

inserted by FC2 system