名胡桃城


はっきりと歴史に現れるのは、上杉謙信が死亡した後、御館の乱を経て上杉景勝と武田勝頼が同盟を結んだ際に武田氏による沼田攻略が承認された事に始まります。
もともと沼田領は上杉家と北條家の係争地でしたが、謙信死後には北條氏が領有していました。
そこで沼田領の中心である沼田城の攻略を勝頼が真田昌幸に命じたとき、昌幸が前線基地として築いた城です。
また、伝承ではかなり古くから築かれていたと言う説もあり、この場合は沼田城攻略に先立ち、昌幸が事前に攻略したと考えられます。

小さい城ながら歴史的には重要な役割をもち、武田氏による沼田城攻略の後、武田氏滅亡後そのまま真田氏が保持し続けましたが、北條氏も沼田再攻略を虎視眈々と狙っています。
その後、武田領を併呑した徳川氏と元々の所有者であると訴える北條氏の間で沼田城帰属問題が発生し、豊臣秀吉の裁定により沼田城を含む利根地方の7割は北條氏のものとなります。
残りの名胡桃城を含む3割程度が真田の領地としました。

結果、沼田城を領有していた真田昌幸は秀吉の意向に逆らわずに沼田城を退去し、名胡桃城に撤退。
名胡桃城には腹心である鈴木重則を城代として本拠である上田城に帰還します。

一時は平和的な解決となったかに見えますが、沼田城代となった北條氏の猪俣邦憲は、あろう事な名胡桃城を謀略等を用いて奪取してしまいます。
この一軒が秀吉の発した「惣無事令」に違反するとして、秀吉は諸国の大名に檄を飛ばし北條討伐を命じます。

これが「小田原の役です」
名胡桃城は小田原の役を引き起こした由緒正しき(?)城と言うわけですね。
まぁ、いずれこうなるであろうと期待して利根地方の分割を決めた秀吉の策略かもしれませんが。

国道17号をみなかみから沼田方向へ走っていると左側に入る場所にあります。現地説明看板
馬出し口
三の丸跡
二の丸跡
二の丸から本丸にわたる道
本丸跡にある新しい方の城址碑
古い方の城址碑

城は連郭式のオーソドックスなつくりです。
利根川を挟んで対岸に明徳寺城があるようで、2つでおのおの防衛を補完しあっていたような構造かもしれません。

小田原の役が終わり、真田氏の本領として上田・吾妻・利根が安堵されると、名胡桃城は廃城となりました。


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