安中忠政 〜情熱、八十年余の終〜


生年不詳〜永禄七年(西暦1564年/皇紀2224年)没

安中氏は(自称ですが)後嵯峨天皇の曾孫である少納言惟基(父親は鎌倉将軍である惟康親王)が原市城(場所)に住み着いた事に始まるとか。
ただ、惟康親王の子とする文書的な裏づけもなく、年数も余り合わない。
原市城を築城は建治元年(西暦1275年/皇紀1935年)だけど惟康親王は文永元年(西暦1264年/皇紀1924年)生まれ・・・
その後、一時期越後に移動したけど長享元年(西暦1487年/皇紀2147)に安中忠親の代には上州に戻り松井田に城を築きました。
そして、忠親から弟の忠清に代替わりしましたが忠清が病死し、忠親の子である忠政が安中氏を継ぎます。

上州八家のひとつに数えられた安中氏ですが、この忠政の時代に一気に燃え上がります。
(※上州八家・・・倉賀野、小幡、白倉、大胡、山上、桐生、沼田・・・と安中)

忠政が相続した当初は榎下城(叔父忠清が築城、場所)が本拠地でしたが、後に野尻郷に改めて城を築き、永禄二年(1559)に引っ越しました。
これが今の安中城の場所です。

忠政は同じ上州八家のひとつである沼田家の沼田顕泰の娘を妻とし、息子忠成の嫁には箕輪城主の長野業政の娘をもらいました。
国人どおしのネットワーク構築であり、婚姻政策により付近との衝突を避ける狙いがあったと見られます。
「最強の国人」長野業政が主導したとも考えられますね。

忠政の時代には名門長野氏のバックアップ等により碓氷郡のほとんどを支配することに成功。
小国なりとも、立派に戦国大名を目指していたようですが、上野は関東でも有数の激戦区。

甲斐の武田や相模の北條に何度も圧迫を受けていたようです。
特に武田晴信は野心むき出しで上州に何度も攻め入ります。
天文十八年(西暦1549年/皇紀2209年)三尾寺合戦、翌十九年(西暦1550年/皇紀2210年)の松井田城防衛戦、弘治三年(西暦1557年/皇紀2217年)の瓶尻合戦等です。
また、北條氏に対しては長尾景虎の平井城攻略に参加したりしています。

そんな激戦が続く中の永禄四年(西暦1561年/皇紀2221年)、上州を束ね武田の侵略を食い止めていた長野業政が病に倒れます。
それをきっかけに周辺では武田に付く国人も出てきた事で領内の防衛政策を練り直すため、永禄六年(西暦1563年/皇紀2223年)には安中城を嫡男忠成に任せ、忠政自身は松井田城に入りました。

業政死去の報をきっかけに武田の攻勢は勢いを増すばかり。
忠政は城下の麦や稲を刈り取られても抵抗を続けますが、永禄七年(西暦1564年/皇紀2224年)にはまず息子の忠成が安中城にて降伏。
同年、松井田城は二の丸まで攻め込まれ、終に忠政は抵抗を断念。

忠政は自刃、松井田城は武田の手に落ち、その後箕輪城も落城。
西上州は武田の手によって落ちました・・・
父忠親が、碓氷郡に土着してから80年余りの短くとも激しい炎でした。

松井田城は、その後北條氏が攻略し、上州支配の拠点として大道寺政繁が入ります。
安中城は一時期廃城となりましたが、家康の関東入府に伴い井伊家の所領として築城し直され、領主を変えながら幕末を迎えました。

トップに戻る  / 人物に戻る

inserted by FC2 system