杉木茂左衛門 〜命を懸けた直訴状〜


?〜天和二年(1682) 

旧月夜野町生まれ月夜野の農民。
上毛カルタの「て」を飾る人。
「天下の義人 茂左衛門」

寛文二年(1662)年から始まった沼田藩主真田信利による領内総検地により、石高がおかしくなり、細かい話しは省きますが増税となってしまいました。
周辺の農民が困り果てているところ、茂左衛門は何とかしようと将軍綱吉に直訴しました。

当時、直訴は大罪です。死罪は免れないところです。
しかし、茂左衛門は怯まず百七十七箇所の村民のため、上野輪王寺の僧侶を経由して綱吉に直訴状を届けようとし、見事幕府に届きます。

藩主は改易となり領民は救われますが、結果が良好とはいえ直訴は重罪です。
茂左衛門は、家族と共に月夜野の竹之下川原にて磔に処されます。

天和二年11月5日のこととされています。

今でもみなかみ町(旧月夜野町)には、磔が行われた刑場跡に石碑があり、その近くに茂左衛門地蔵を祀る千日堂があります。

なお、茂左衛門は本名は斎藤内蔵之介であったとされています。
もともとは武士の次男か三男だったようですが、承応や寛文年間の検地帳に「茂左衛門」とあり、その横には「斎藤内蔵之介事」と記してあるとのこと。

就農した際に、杉木家と何か関係があり、苗字を貰ったのではないかという説のようです。

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