真田信利 〜悪政、ここに極まれり〜


寛永十二年(1635)〜 貞享五年(1688)

信直、信澄とも言う。
第五代沼田藩藩主として、二代藩主信吉の次男として生まれました。
兄の三代藩主が早世し、叔父信政が四代藩主となったが、信政が本家松代藩を継ぐこととなったので、信政の後を継ぐ形で藩主になりました。

藩主となった信利は、城に手を加えたり、神社建立を行ったりして、藩財政を混乱させてしまいます。
しかし、信利は財政再建の秘策を持っていました。

それは、「検地のしなおし」です。

幕府から沼田藩の領地石高は「3万石だ」と言われていました。
そこで、信利は領内をもう一度検地し直して、表石高(幕府認定の石高)3万石に対して、し直し検地の結果は、なんと石高15万石!

領民は、今まで3万石と言われていたのでその分の米作りをしていました。
おそらく実高もその程度だったのでしょう。それが、いきなり5倍の増税となってしまい、不満続出でした。
しかし、信利はその後も是正しようとはせず、15万石のままで藩政を進めます。

やがて延宝八年(1680)に、大雨で流れた両国橋の架け替えのための木材調達を沼田藩が行う事となりましたが、あまりはかどりませんでした。
また、流石の農民も窮状に限界がきて、杉木茂左衛門(別項参照)が幕府に直訴してしまいます。

結果として両国橋の木材調達の不手際や茂左衛門の直訴等により、沼田藩は改易となってしまいました。

また、他にも迦葉山弥勒寺は徳川家康時代からの殺生禁止の場所にもかかわらず狩を行ったりとか、重臣を頻繁に首にしたり農民をむやみやたらに使役したりとかの理由もあったようです。
この辺は改易される大名に共通する話題もあるので、後付の可能性もありますが、とにかく評判の悪い殿様であったことは間違いないようです。

沼田藩改易後、信利は山形藩の奥平家に預かりとなりました。
奥平家が宇都宮に国替えになったときにあわせて宇都宮に引っ越しています。

ちなみに、信利の嫡男である信就については、赤穂藩浅野長矩に預けられております(赤穂藩取り潰しの後、どうなっちゃったんですかね?)。

信利はそのまま宇都宮で没しました。
享年53歳

なお、沼田藩は、改易後、一時期天領として幕府直轄となりましたが、下総より本多家が入ったのを皮切りに黒田家から土岐家と続き、十二代目土岐頼知(よりおき)の時代に幕末を迎えました。

トップに戻る  / 人物に戻る

inserted by FC2 system