真田昌幸 〜表裏比興の名将〜


天文16年(西暦1547年/皇紀2207年)〜慶長16年(西暦1611年/皇紀2271年)

甲州武田家の家臣である真田幸隆の三男として生まれます。長篠の戦いにて、兄二人が戦死したため真田家の家督を継ぎました。

武田氏の上州統治の一環として、上州の沼田城を攻略しました(天正八年)
武田家滅亡後独立し、上杉・北條・豊臣等の諸勢力の中を渡り歩きその勢力を保ちつづけます。
独立後、信州上田に城を築いた昌幸は、徳川家と沼田の帰属について関係が悪化し、天正十三年に、徳川軍8000が上田城に攻め込みますが、昌幸は2000弱の兵力で徳川軍を蹴散らしました。(第一次上田城攻防戦)

その後、豊臣家に臣従し所領を安堵されますが、沼田城は北條家の所有とされ、昌幸は沼田城の近くに名胡桃城を築き所領としました。

しかし、北條家が名胡桃城の攻略を行う事がきっかけで、秀吉の怒りを買い北條攻めが起こります。
北條家滅亡後、沼田城は再び昌幸のものとなり、昌幸は息子の信幸(後に信之に改名)に沼田の統治を任せます。

秀吉が死亡し、徳川家康と石田三成の対立がピークに達し、関ヶ原が起こる直前、昌幸は徳川家臣本多忠勝の娘を嫁にしている長男信幸を東軍(徳川方)へ臣従させ、自らと次男信繁(幸村)は西軍(石田方)に付くと表明しました。
どちらが勝利しても、真田の名を残そうとする昌幸の長期的戦略でした。

関ヶ原合戦の起こる数日前、徳川家康本体は東海道を西進していましたが、家康の息子秀忠率いる3万5千の軍勢が中仙道を経由し美濃へ向かっていました。
ここで、昌幸は得意の軍略で、たった2000有余の兵力で上田城にて秀忠軍を翻弄し、結果、秀忠軍は関ヶ原合戦に遅参するという大失態を犯してしまいます。

「徳川家の軍勢を二度までも敗退せしめた」

昌幸の知名度はいよいよ天下に響きますが、肝心の関ヶ原では西軍が大惨敗。

昌幸・信繁親子は、本来は斬首なんでしょうけど、信幸の助命嘆願もあり、九度山(和歌山県)への蟄居を命じられ、昌幸はこの地で65歳の生涯を閉じました。
慶長十六年(1611)の事です。

ちなみに、仲路さとる著「異戦国志」の中での、真田昌幸の最後の情けなさっぷりに不満を持つのは小生だけでしょうか?

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