山名城


高崎市にある年代はかなり古い城跡です。
城名のとおり、新田系源氏の山名氏の居城と言うことですが確証は無いとのこと。
戦国時代には木部氏が城に入っていたようですが、武田氏の西上州侵攻後、木部氏は武田の家臣となります。
その後、滝川一益→後北條氏と主家を変えた木部氏ですが豊臣秀吉による小田原攻めでは北條方として参戦し敗退。
木部氏は滅亡し、山名城は廃城となったそうです。
別名は「前城」もしくは「寺尾下城」というとのこと。

上毛三碑のひとつである山ノ上碑がある場所が入り口で、そこから10分程度で根古屋城との分岐に差し掛かります。

根古屋城との分岐箇所。比較的道もよく、雨の後等でなければ普通に歩けます。
分岐の手前にある説明看板。

看板に書いてある文章を書き起こして見ました。
山名城址
源義家の孫新田義重(一一一六)−(一二〇二)の子義範は、
この城に拠って山名氏と称し、以降八代山名城を護ったという
東西四五〇m、巾のもっとも広いところは二の丸の部分で
南北一三〇m、この城は築城法からみて、弓矢だけの時代でなく
鉄砲が使用された時代の普請であることがかわるそうである。
南北朝時代信濃南朝方の関東での橋頭堡として、寺尾上城(乗附)、
中城(寺尾)と一連の名称で寺尾下城とか前しろとよばれている。
それにもかかわらず、前二城よりはるかに進歩した築城法によって
作られているのは、この城が戦国時代になって木部城の要害城として
改築されたためである。

木製階段が整備されているので急傾斜でも上りやすいです。
郭の縁を通る形でしょうか、歩道が整備されています。冬なので涼やかですが夏は軽装のほうがいいかもしれません。
掘切の跡でしょうか?ちょうど二の丸と本丸の間かな。
本丸に上がる階段です。
本丸跡は公園のように整備されていました。展望台等もあります。
本丸跡にあった石碑。衆議院議員木部○○(木部佳昭氏だろうか?)の揮毫でしょうかね。木部氏の要害城だったことの由縁から?
石碑近くの説明看板。ところどころ擦れていて読めませんでした・・・高崎市関係者様、ぜひ整備のほどを(笑)
展望台から見た高崎市内方向。木が邪魔ですが、遠望には良い場所のようです。

応仁の乱の「西陣」である山名宗全や、「六分の一殿」山名氏の発祥はここ山名城なのですね(多分)!
まぁ、山名氏は新田の出だから、群馬発であるという点は動きませんけど。

関連ホームページはこちら↓
高崎市役所HP


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