高崎城


三国街道と中仙道の分岐点である交通の要衝・高崎市にある城跡です。
高崎市は、元々は「和田宿」と呼ばれ古くから街道の要衝であり、江戸時代に入るとますます重要性を増すことになります

旧来は和田宿であったため、和田城と呼ばれる城がありました。
現在の高崎城と和田城は場所もほとんどかぶっており、和田城を修築・拡充したものが高崎城であるともいえます。
そのため「高崎城(別名:和田城)」と紹介する場合もあります。

当サイトでは、とりあえず違う城として扱う事としますが、厳密に「違うか、違わないか」は確定できないと思います。

さて、高崎城跡の遺構はほとんど残っておらず、現在は市役所を中心に公的機関や商業施設が立ち並ぶ高崎経済の中心地です。
高崎城があった場所には明治維新以降、陸軍の鎮台が置かれたり市役所が置かれたりしました。
他でも同じ傾向がありますが江戸期以降の城跡には基本的には藩庁等があり、そのまま行政機関が置かれる例が多数あります。
それがため、貴重な遺構が失われる例もあるわけで、なんともいえない微妙な問題ですね。

元々、和田城だった時は、和田氏が周辺を含め領していましたが、戦国時代に和田業繁の代で武田氏の旗下に組み込まれます。
その後、武田氏滅亡後、小田原の役で落城、徳川氏の関東入府後は井伊直政が箕輪城より和田城に移ります。
直政は和田城を修築し、名を高崎城と改め、高崎藩として立藩されました。

その後、高崎藩は藩主が幾度か交代します。
その都度、高崎城には何らかの修復が行われ、わかっているものでは享保年間の乾櫓の修築があるようです。

その他としては、秀忠の三男で駿河大納言と呼ばれた徳川忠長の最期の地として有名です。
秀忠死去後に家光に蟄居を命ぜられ最終的には高崎城で切腹します。享年29歳
徳川忠長の墓は、高崎市内(駅前辺り)の大信寺にあるそうです。

 高崎市役所の周辺にある城址碑と説明看板。各種開発により遺構関係施設は、三の丸外郭の土塁と堀が残り、下記にある櫓や門が復元移築されました。
 三の丸の堀
 市内某所より昭和55年に移築された三の丸東門
 東門と同じく市内某所より昭和52年に移築された乾櫓
 乾櫓と東門の説明板

説明板には築城の経緯等が記されていました。

『(前略)
 高崎城の築城は慶長三(一九五八)年、井伊直政によって着手されるが、その後、藩主は目まぐるしく替わり、元和五(一六一九)年に
安藤重信が入部して、元禄八(一六五九)年までに三代にわたって在城し、城と城下町の整備にあたっている、享保(一七一六〜一七三六)
ことの著作という「高崎城大意」には、三代の重博が、平屋の土蔵の様でしかなかった乾櫓を二層の櫓に改築したとの記事があるが、
これと様式的に見ても矛盾はなく、十七世紀末の建築と推定されている。
その後、東門とともに下小鳥町の農家に払い下げられ納屋として利用されていたが、県重要文化財の指定にともなって、昭和五十四年
この位置に移築復元された。初層の戸口の位置は納屋として使用されていた時期を踏襲しており、屋根瓦は当時の資料によって復元された
ものである。両側の鉄砲狭間をあけた塗り込め塀は、修景のためのものである。』

農家に払い下げって・・・

関連ホームページはこちら↓
高崎市HP

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