多胡碑


上毛カルタの「む」で出てくる古い石碑です。
「昔を語る 多胡の古碑」・・・札の文章もそのまんま。
地元では古くから「ひつじさま」と親しまれ、大切に保管されてきたそうです。
大東亜戦争が終わった昭和20年には、当時の行政が土中に埋めるよう指示があったとか。
これはGHQに接収されるのを防ぐためだったようです。

多胡碑は書道の歴史の中で「日本三大古碑」にも数えられるもので、書体の研究でとても重要だとか。
また、「上毛三碑」と言って山ノ上碑金井沢碑が近隣に存在します。
歴史的には上毛三碑の方が古いようです。

多胡碑が入っている覆堂です。普段は中には入れず、中の写真も撮影不可。
毎年3月の第一日曜日に開帳があるようです。
現地の説明看板です。様子がよくわかります。


多胡碑にはこういう事が記されているようです。
『<碑文>
 弁官符上野國片野郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊
 成多胡郡和銅四年三月九日甲寅宣左中弁正五位下多治比真人
 太政官二品穂積親王左太臣正二位石上尊右太臣正二位藤原尊
 <現代語訳>
 弁官の命令で上野国の片岡郡緑野郡甘良郡の三郡の内から三百戸を分けて郡を成し羊に給わる.
 成る郡は多胡郡とせよ.和銅四年三月九日甲寅に宣べた.左中弁正五位下多治比真人.
 太政官二品穂積親王.左太臣正二位石上尊、右太臣正二位藤原尊.』

弁官とは、まあ今で言えば「閣僚」のことですね。
多治比真人、穂積親王、石上尊、藤原尊の四名の事を指します。
この辺に人が増えてきたので、今ある三つの郡からちょっとずつ人を割いて、新しい郡を作ります。という命令書です。
なぜ、それが碑文になっているのかはわかりませんが、新しい郡を作る記念に命令書を石碑に起したのでしょうか?

また、碑文の中にある「羊」が、地名なのか人名なのが集団名なのかは謎です。
ただ、吉井周辺をはじめとして伝わる「羊太夫伝説」との関連が注目されます。


説明看板にあった昔の覆堂の様子。
隣接する多胡碑記念館。
有料です。

既に江戸時代には知られる存在で、文人墨客が拝見にきたり近代では群馬にゆかりのある政治家等が見に来たり。
皇太子殿下や、ノーベル賞をとった湯川教授ももやってきたこともあるとか。


関連ホームページはこちら↓
高崎市HP多胡碑記念館


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