白井城


築城時期は不明ですが、南北朝時代には長尾氏が白井の地に入ってきているらしく、白井長尾氏の長尾景仲が築城したのではないかと言われています。
以降、白井長尾氏の居城として使われ続けました。
白井長尾氏は関東管領山内上杉家の被官であるので、当然のように関東管領家の一員として白井の地から各地に転戦していたことでしょう。
途中では長尾景春の様な事例もありますが・・・

その後、白井長尾氏の当主が総社長尾氏から養子で来た長尾憲景から長男輝景、二男景広の三代の間で白井城の運命は急変します
関東管領である上杉憲政が北條氏の圧迫に堪え換え越後に逃げると、長野業政と連合し武田氏の上州経略に抵抗します。
業政病没の後は関東制覇に乗り出した上杉謙信の旗下になります。
一時、武田方の真田幸隆に落城させられるも、後に奪還。
謙信亡き後の御館の乱では景虎方に加勢したため、御館の乱終結後は武田氏に与します。
その後、武田氏が滅亡すると関東に入った滝川一益に属するも半年後には本能寺の変の結果の北條氏の下へ。

そして天正十八年の豊臣秀吉の小田原攻めの際に北陸方面軍と交戦します。
数万騎に囲まれ昼夜鉄砲を撃ちかけられ、三の丸まで落とされますが、最後の当主である長尾景広は本丸を死守し徹底抗戦しました。
最終的には前田利家が景広を説得し、景広はそれに応じます。 白井長尾氏は白井城を退去し、前田家に仕えた後に米沢に転封となった上杉家に戻る事になりました。

その後の白井城は、徳川家康の関東に入ると家康の旗本が大名として白井2万石を治めます。
ただし、本多康重→松平康長→井伊直孝→西尾忠永→本多紀貞と藩主が目まぐるしく変わり、最後の紀貞が死去すると無嗣断絶となり、その後、廃城されました。

 本丸跡にある標柱です
後ろの石積みは「枡形門」です
 本丸跡
 本丸を囲うように配置されている土塁。
結構高いです。
 土塁上から本丸広場を撮影しました。
 本丸跡にあった説明看板
 説明看板の城域図を撮影してみました。
 本丸と二の丸の間の掘割。
「三日月堀」という名前だそうです
 同じく本丸と二の丸の間の掘割
 周辺はほぼ完全に畑地化されています。
 二の丸跡
 二の丸と三の丸の間の掘割
 三の丸跡
 北郭跡。石積みの上に神社がありました。
この石積みも遺構かどうかは定かではありません

城域部・周辺はほとんど畑地化・宅地化されています。
国道17号線から、利根川方向に入り、路地を通りながら現地奥まで車で行く事は可能です。

地図を見ると、本当に川っぺりに築城されているのがわかります。

積極的に保存の動きがあるようには見えませんでしたが、城域はほぼ畑地化されていることから極端な事でもない限り、現在の状態は保たれると思われます。
一応、平成に入り県指定文化財になったとのことですが。
こういう現地保存もいいかもしれませんね。

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