織田氏七代の墓



甘楽郡甘楽町に信雄流織田氏の墓が七代にわたり残っています。
信雄流織田氏は、スケート選手の織田信成を排出した事でも有名です。

まぁ、それ以前に織田信雄は、いろいろな面で歴史好きには有名ですけどね・・・

まじめな話をすると、関ヶ原や大坂の陣等があり、いろいろ云々かんぬんあっての事ですが、
織田信雄は元和元年(1615年)に徳川家より大和宇陀郡と上州甘楽郡あわせて
五万石を受けまして、そのうち上州甘楽郡が「小幡藩」という事になります。

後、信雄は楽山園を造営した後、隠居して京都で没っしました。

小幡陣屋が、いつ完成したかという話は正確にはわかりません。
二代目信昌のときに、陣屋を小幡村に移したようですが。

上州織田氏は信雄の四男である信良から始まり、信邦まで7代続きます。
信邦の代で蟄居となり後に出羽高畠藩に転封となります。

この地に祭られているのは、出羽転封となった信邦を除き、信雄から数えて七代のものです。

 駐車場から徒歩3分くらいで寺の上り口

看板が時代がかっていて言い感じですが、実際はここを上ってもしばらく民家の横を通ることになります。

まぁ、実際は駐車場からも直接いけたようですが、案内は少しわかりずらいかんじでしたね。
 階段を坂道を上り、崇福寺を見ながら左に向かうと、だんだんと見えてきます。

桜の時期などは、とても風光明媚な雰囲気がありそうな予感しますね。
 現地の説明看板。

七代の事柄についてしっかり記載されております。
 いちばん右にある織田信雄の墓
右から順に七代の墓が並んでおります。
 信雄の四男にして初代織田小幡藩の藩主である信良の墓
 初代信良の長男で、二代目小幡藩主の織田信昌の墓
わずか2歳で藩主を継ぎ、26歳の若さで亡くなったそうです。
 先代信昌が継嗣なくして没したため、親戚筋である大和宇陀藩より養子として入った三代目藩主である織田信久の墓

信久は60年近く藩主にいたそうです。
 第四代織田信就(のぶなり)の墓

信就は、財政破綻寸前の藩政を立て直そうと努力したようです。

9男3女の子福者であったとか。
 第五代織田信右(のぶすけ)の墓

江戸屋敷の火災や自身の病等に悩まされたそうです。
 第六代織田信富(のぶとみ)の墓

宝暦九年(1759年)に藩主を継ぐも、病弱で五年後の明和元年(1764年)に死去

後、信邦が継ぐもうにゃにゃ・・・・
 さて、こちらは、駐車場から墓地方向を見ている画像。

一見、目的地に到着しなさそうですが、こちらからも織田氏七代の墓には徒歩で数分かからず行けます。
 駐車場の脇にある紛らわしい案内板w

「Odake no haka」という案内表示もなんか微笑ましいですな。


場所はこちら


駐車場は、寺の目の前ではなく少し町寄りに唐突に現れます。
看板はありますが砂利敷きの「空き地」みたいな感じです。
見逃したら、結構めんどくさいかもw

関連サイトはこちら
甘楽町ホームページ


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