一之宮貫前神社


上毛カルタの「ゆ」の札でおなじみの貫前神社。
(ゆかりは古し 貫前神社)

創建は古く、安閑天皇年間の西暦531年(皇紀1191年)です。
物部氏の一族である磯辺氏が、物部氏の氏神である経津主神を鷺宮(安中市)に勧請して奉祀したのが創始とされています。
安中市は関連する咲前神社があります。

咲前神社の由来によれば、経津主神が健御名方神を追って上信国境の荒船山までやってきたそうです。
天孫降臨の国譲りに関する場面の一部ですかね。
このとき、経津主神が宮とした場所が現在の咲前神社の場所だそうです。
その後、神託があり抜鉾大神(経津主神)を神楽(甘楽)郡に遷座することとなりました。
そして供奉の道筋で神事があり、現在の地に貫前神社を立てたとのこと。

現在は「一之宮貫前神社」という名で呼ばれていますが、一部の歴史書によれば「抜鋒神社」という名前も見られます。
これは祭神である経津主神の他、姫大神(比売大神)も祭神として2柱をお祀りしているためであり1神1社説、2神2社説等があります。
延長五年(西暦927年/皇紀1587年)に編纂された「延喜式神名帳」によると貫前神社は上野国式内12社中の筆頭として「一之宮」を冠ぜられました。

戦国時代、西上野は上杉・武田・北條の各氏が激戦を繰り広げる場所で、支配者がたびたび変わる地域でした。
格式高く、武神である経津主神を祀っている貫前神社は各氏から庇護を受けたそうです。

江戸時代に入ると徳川家の庇護を受け、三代家光や五代綱吉の時代に社殿の再建や改修が行われました。
現在、国指定重要文化財である本殿、拝殿、楼門はこのときに作られたものとされています。

 富岡市内の上州電鉄上州一之宮駅から徒歩10分弱で鳥居の前階段に到着です。
 階段を上りきると、荘厳な山門が見えてきます。この先が本殿ですが・・・・
 朱塗りの立派な山門をくぐろうとすると、様子がおかしい・・・
 階段を上ってきたのに、また下がる(笑)これは全国的にも珍しい「下り宮」という形です。


貫前神社の大きな特徴に上記の「下り宮」の他に「鹿占習俗(しかうらしゅうぞく:鹿占神事とも)」があります。
太占(ふとまに)の一種で、古来より連綿と続けられてきた儀式です。
雄鹿の肩甲骨を熱した錐で貫き、割れたひびの具合で吉凶を占うもの。

全国でも、貫前神社と東京の武蔵御嶽神社にしか残っていないもので、大変珍しい儀式です。
(ほかに、東京の阿伎留神社でも以前は行っていたようです)
鹿占習俗は、群馬県の重要無形民俗文化財に指定されています。

 鹿占習俗で用いられる火鉢(?)宝物館に鹿の骨等と一緒に展示されています。

鹿の骨で占うという神事は、古事記にも記述があるもので、歴史は古いようです。
遺跡などから、それに用いられたであろう鹿の骨が出土する例もあります。
また、似たようなもので、大陸では亀の甲羅で行っていましたね。
亀の甲羅で行うものは太占にはいるのかどうかわかりませんけど。
日本で太占と言う場合は、鹿や猪等の骨で行っているものを指すようです。



平成26年3月21日 再訪追記


 富岡市指定重要文化財の唐銅製燈篭。
慶応年間に献納されたものだそうで。

周辺の製糸業者や商人、養蚕家たちが養蚕・絹織物殖産発展を祈願して献納したとのことで、富岡界隈の養蚕文化を現す貴重な品だそうです。
 朱塗が映える豪壮な本殿。
 末社である月読神社
 鳥居前にあった由来書です。




場所はこちら


公式ホームページはこちら↓
貫前神社公式HP


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