桃瀬の水牢


群馬県中之条町にある異色の史跡です。
国道145号線沿いに錆びた看板とともにたたずんでいる史跡です。
沼田藩の第五代藩主真田信利の治世下で、年貢を納められなかった領民に責め苦を与えるために設置されたと考えられておりますが確たる事はわかりません。
吾妻地域に同種の史跡が9箇所あり、この桃瀬の水牢がもっとも原型をとどめているであろうと言うことで町指定の文化財となっております。
    
    が・・・
    
    吾妻地域に見られるこの種の遺跡が利根・沼田地域には見られない事から実際に真田信利の時代に用いられたものではなく、それ以前から使用されていたのではないか?と言われています。
    信利時代の圧政の記憶と、得体の知れない水牢なる異種な責め苦が後世混同された可能性は否定できません。
    無論、過去からあったものを信利が使用した可能性もあり、中之条町誌でもその説を採用しているようです。
    
 注意しながら見ないとなかなか見当たらない感じで案内板がひっそり佇んでいます。
 近づいて見ると、錆び錆びです・・・
 説明板ですが、撮影時は見えたのに何故か写らない・・・メモから書き起こした内容を記しておきます。『町史跡 桃瀬の水牢跡/指定年月日昭和54年3月8日/水牢は人を水の中に入れる水責めの一種でおもに年貢のとりたてに使われたといわれる。/水牢跡は近世の沼田藩の中で吾妻東部だけに残されている遺跡であり、8ヶ所ある中でこの跡がもっともよく原型を残している。記録には、12m四方に粗朶(そだ)をゆい、木戸を設け、周囲は石垣で、女は水を70cm位にし、子供のある者は背負わせ単衣(ひとえ)にさせ5人ぐらいを袖に縄を通してつなぎ入れたといわれる。男は首のつかるまで入れたといい、体温低下により死んだ者もいたといわれる。この悲惨な姿を見て、人々にすがり年貢を納めたのだといわれている。吾妻東部にしか見られないものなので、中世における岩櫃城主斉藤越前守(岩下衆)が使ったものと推定され、それを近世になり真田伊賀守も使っただろうと考えられている数少ない遺跡で貴重なものである。/平成2年3月/中之条町教育委員会』
 水牢本体。桃瀬川が近傍にあり、水も湧き出ているようですので、こんなとこに浸けられたら寒くて大変そうです。年貢を納めないと地獄のような責め苦を科されるわけですね。信利が改易されたのも頷けようというもの。
 石碑と案内板を撮影。やっぱり案内板真っ白・・・ハレーションか何かだと思うけど。

関連ホームページはこちら↓
http://www.nakanojo-kanko.jp/bunka/machi/momose.html


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