国王塚(新潟県湯沢町)


群馬県と県境で接している新潟県南魚沼郡湯沢町
三国山脈を挟んでみなかみ町とつながっていますが、三国峠や清水峠により往来の合った地域です。

時は南北朝時代。
後醍醐帝や足利尊氏、新田義貞と弟である脇屋義助、楠正成等の南北騒乱の第一世代が次々と没した頃
南北朝の争いは全国に波及し、上州や越後も無関係ではありませんでした。

南朝方は全国的にやや劣勢
各地で蜂起しては北朝方に鎮圧され、また各地に散らばり根拠地を造って勢力を集めては兵を挙げるという事を繰り返していました。

そんな中、越後方面に脇屋義助の子であるである脇谷義治が当地にやってきます。
義治は信濃を根拠地に東国一の南朝方勢力を誇る宗良親王(後醍醐帝の子)の子である国王丸を連れていました。

義治は、越後や上州を中心に各地を転戦しますが、その間に国王丸は、当地である湯沢町の神立・戸沢周辺の村民に奉られていました。

しかし、南朝方の悲願達する前に11歳という若さで当地で薨去します。
国王丸は当地に葬られ、現地には墓とされる国王塚が残されています。

 現地の国王塚(2011年撮影)
提供:湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」

倒れたまま、補修することなく現在に至っています。

あくまで伝承に基づく話ですので詳細な調査は行われていない様子

場所は不明

・・・というか、写真を提供して頂いた方による情報だと
「スキー場が管理する土地を抜けないとたどり着けない」との事
なので、今回は訪問してません、あしからず

実際の生没年等は不明
宗良親王に興良親王と尹良親王という二人の子がいたとされていますが両者とも活動は比較的判明しています。
故に、かれら以外にまだいた子が国王丸という事になりましょうか。

国王丸を連れてきた脇屋義治は従兄である新田義宗とともに正平二十三年に越後で挙兵するも上州沼田荘で敗北
義宗は戦死し、義治は行方知れずとなります(異説あり)

国王丸が薨去したのも、おそらくこの頃でしょうか


関連サイトはこちら
湯沢町HP「国王塚について」


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