後閑城


築城は嘉吉元年(西暦1441年)頃から行われ、後閑城という名前なれど依田忠政によるものといわれています。
その後、依田氏が何代が続いた後、北條政時に一時城主が変わりますが、後閑周辺の所領争いの結果、新田景純が後閑城の城主になります。

新田景純は、新田義重の後裔といわれていますが、諸説ありましてはっきりしません。
この新田景純が、後閑城に入った事から「後閑氏」を名乗ったという事のようですが、前後関係が詳しくは不明です。
最初に後閑氏を称したのは、景純の息子の信純からではという説もあり、後閑氏を名乗りだした年代も判然としません。

後閑景純もしくは信純は、最初は長野業政に組みしていたようですが、小幡信貞と並び西上州の豪族としては比較的早くから武田氏と通じていました。
はっきり武田方になった時期はわかりませんが、永禄三年(西暦1560年)までには、既に武田方であったようです。

長尾景虎が上杉憲政を奉じて越山した時に作成された「関東幕注文」には、後閑氏が参加しているような記述は見当たりません。
その後は長野氏が滅び武田氏が西上州を治めるに至り、上州小幡氏とともに上野国の武田方の要として上州防衛とともに武田方の各合戦に参加したりしています。

武田氏滅亡後は、上杉氏→滝川氏→北條氏と主を替えました。
豊臣秀吉による小田原攻めの際、後閑氏は小田原城に詰め上州防衛は松井田城を中心に大道寺政繁が指揮していましたが、松井田城とともに後閑城も落城。
その後は、廃城となりました。

現在は、公園として整備され基本的な土塁や堀切等は変更を加えないまま、遊歩道等を整備してあります。
九十九川と秋間川に挟まれた丘陵地を上手に郭として築城した感触が、よく残されています。

また、城跡の北側は「秋間梅林」として、梅の季節は地域の観光名所になっています。

 後閑城跡に行くにはルートが三つ
後閑小学校の東側・西側および秋間梅林側からなのです。

これは秋間梅林側からの遊歩道から最初に移行としたら、この状態(笑)

断念して、後閑小学校を目指しました。
 後閑小学校西側ルートから行くと、広い駐車場に行きつきます

が、

それまでは道が狭いので、あまり自動車によるこのルートはお勧めできないかも・・・

駐車場にあった看板ですが、このほか各所に看板があるのですが、どれも同じ感じの色あせ具合・・・
ちょっと切ないセピア色
 本丸までの登山道です。
城跡全体を通して、比較的道は整備されていました。
 三の丸跡
 北郭と堀切の跡です
 途中にあった案内看板

そうか・・・

秋間梅林から来たらここにでるのかw
 北郭にある東屋

草の手入れが・・・・
 本丸に至る道
途中で二の丸に分岐する場所があります
 本丸に上がる道
 本丸跡広場にある城全体模型
 本丸跡

庚申信仰による百庚申が並べられています。
 本丸から見た榛名山
 二の丸跡にあった復元高見櫓

一通り歩くと、軽く1時間は使います。
広大な城跡を、いい感じで残してくれています。

また、要所要所に東屋がありますので休憩もできます。
行きづらさを考えなければ、お勧めの城跡ですね♪

行くまでに道が狭い・・・・
とりあえず後閑小学校東側の入り口がお勧めです
秋間梅林側の遊歩道をもっと整備してくれれば・・・ねぇ


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