吾妻神社


創建年代は不明である中之条町の郷社です。
かなり大昔からあったけれども、途中で神社が火災にあり、由来等がわかる資料が焼けてしまった・・・と説明看板にありました。

「吾妻神社」と名があるからには、ヤマトタケル伝説と関連があるかと思えば、そうではないようです。
元々は「南西三丁ヲ距テシ御手洗山」の山頂に本殿があったとのこと。
一丁(町)は約110mくらいなので、南西に330m行った先っは、現在は山ではなく宅地ですが。
当時とは単位の考え方が違うのか、御手洗山というだけで特に高くはなかっただけか?。

で、ヤマトタケル伝説と関係の有無についてですが、既にこの地方は昔から「吾妻郡」でした。
律令制下で既に上野国十三郡(後に十四郡)の中に「吾妻郡」は存在しています。
この吾妻の語源は、ヤマトタケルが東征の途中で妻の偲んで「吾が妻よ・・・」な事を発言した事から来ているようです。
この話は上州だけでなく神奈川・千葉等でもあるため、地名としてはそちらにもあります。
ですが、中之条町にあるこの吾妻神社は、昔は「和利宮」と呼ばれていました。
明治時代に入り、周辺の村社等を集めて、この神社に合祀し郡名から「吾妻神社」と改称したのが、この神社の名前の由来のようです。

例えば他の(神奈川や千葉の)吾妻神社では祭神に「ヤマトタケルノミコト」や「オトタチバナヒメ」を奉っている事があります。
しかし、この中之条町の吾妻神社の祭神は、オオムナチ・・・すなわちオオクニヌシノミコトとなります。

では、なぜ「和利宮」であったかというと、神社では「昔は『和流の宮』だったが、次第に転化し『和利の宮』になった」と解説しています。
和流の宮とは、「唐流」に対する「和流」という事で、日本風という意味があるようです。
別の伝承として室町時代に成立した「神道集」という書物によると(第六巻、上野国児持山事)、伊勢から来た娘と加若次郎和利との説話もあります。
この話に「吾妻七社明神」が出てきまして、その七社の中心が嵩山の神である「和利」を奉る和利宮ということになったようです。


 国道145号を伊勢町下の交差点から北側にちょっと行った渋川側にあります。
 鳥居をくぐったら山門です。
郷社ということでこじんまりとした規模ですが、ひっそりしていい感じです。
 本殿。初詣の頃に行ったので地元の方が本殿の中でお祓いを受けていました。
 江戸時代に吾妻神社(当時は和利宮)に地元の人や当地に訪れた文化人が額を献上したものが多数残っており、町の指定文化財となっています。
 神社の由来が書かれている案内看板

ちなみに、町内には別の神社でヤマトタケルを奉る「吾嬬神社」もあります。

また戦国時代初期前後に、この辺を治めていた吾妻三家のうちの塩谷(塩野谷)氏があります。
この塩谷家の居城である「和利宮城」が当神社の場所であったとも言われています。
(日本城郭大系では「和利宮館跡」と書かれています)

関連ホームページはこちら↓
中之条町観光協会


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