戦国時代
〜強国の狭間〜


便宜上、一部室町時代後期に関する記述もありますがご了承ください。

幕府の権威が地に落ちて、応仁の乱が勃発し戦国時代の幕開けになったという事が世間的な通説でしょうか。
しかし、関東地方は状況が異なりました。

応仁の乱は応仁元年(皇紀2127年/西暦1467年)に始まりますが、関東では既にその十年前の享徳三年(皇紀2114年/西暦1454年)が勃発していました。
これは鎌倉公方と関東管領の確執から始まった戦ですが、関東中の大名・豪族を巻き込んだ大乱でした。

ちなみに戦国時代の申し子と目される伊勢盛時(いわゆる北條早雲)が伊豆一国を手にする切っ掛けを作った長享の乱は長享元年(皇紀2147年/西暦1487年)に始まりました。
いかに関東が内乱に明け暮れていたかという事がわかろうというものです。

さて、そのさなかの上州はどうであったか・・・というと、変化が激しすぎてとてもめんどくさい状況でした。

初期の頃は山内上杉家の本拠地として各豪族は上杉氏の被官としてある一定の秩序は保っていました。
概ねの豪族の配置状況は下図のとおりです。
(多少時代により変遷しますが、概ね1500年〜1530年くらいのものと考えて下さい。特に岩松が・・・・ね)

これらの上に、当然のごとく山内上杉家が君臨しており、時代の途中までは上野守護として彼らを率いる立場にありました。
ただし、上野守護は途中で資料的に任官者が確認できなくなり、関東管領を山内上杉家が独占するようになると、上野守護も兼ねるようになったのではないかと推察しています。

また、平井城周辺は関東管領の管領府としての機能があり上杉氏の全盛期の頃は「城下町は鎌倉を凌ぐほどの繁栄ぶり」とも称されました。






(途中執筆中)




長野業政業盛死後、西上州は武田氏が進駐し、既に厩橋に拠点を置いていた上杉謙信、由良氏を介して東毛を間接支配していた北條氏と並び上野国は三国時代に突入します
下図はだいたい、1570年くらいのものとして解釈願います。
(ちょっと違うかもしれませんが、イメージとして・・・・)

この後、一進一退を繰り返す膠着状態になりますが、北条高広の寝返りや越相同盟、相次ぐ当主の死去等により上野は確たる支配者が出ないまま織豊時代を迎えます。


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