近現代
〜殖産興業、戦争、そして民主国家として〜
明治維新直後、どたばたと戦役があり、上州も無関係ではなかったものの(下仁田戦争等)、結果的には明治新政府への移行が進み、今までの行政区域が見直されることとなった。
石高制による300藩分割ではなく、中央集権のためにある程度地方も「個」としての再編を求められたわけだが、明治新政府としては、そう思って進めていても結局関東に関しては大半が平安年間の律令制区分に拠る結果となったわけである。
上毛は、変遷があったものの、今の群馬県になった過程は下表のとおりである。
時期 | 藩名等 | |||||||||
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徳川時代 1590〜1869 |
幕府直轄(旗本領、代官支配地域等) 幕末まで存続した藩:吉井/沼田/前橋/小幡/高崎/安中/伊勢崎/七日市/館林 中途で廃された藩:/総社/那波/板鼻/上野豊岡/大胡/白井/青柳/上里見/篠塚 |
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明治維新直前 1869 |
幕府直轄 | 吉井藩 | 沼田藩 | 前橋藩 | 小幡藩 | 高崎藩 | 安中藩 | 伊勢崎藩 | 七日市藩 | 館林藩 |
版籍奉還 1869/8/1 |
岩鼻県 | 沼田藩 | 前橋藩 | 小幡藩 | 高崎藩 | 安中藩 | 伊勢崎藩 | 七日市藩 | 館林藩 | |
廃藩置県直後 1871/7/14 |
岩鼻県 | 沼田県 | 前橋県 | 小幡県 | 高崎県 | 安中県 | 伊勢崎県 | 七日市県 | 館林県 | |
第一次群馬県成立 1871/10/28 |
群馬県 | 館林県 | ||||||||
第一次栃木県成立 1871/11/14 |
群馬県 | 栃木県の一部 | ||||||||
熊谷県成立 1873/6/15 |
熊谷県の北部 | 栃木県の一部 | ||||||||
第二次群馬県成立 1876/8/21 |
群馬県(現在とほぼ同一) |
※版籍奉還が実施された際、吉井藩のみが政府に領地を返上し、その他の藩は藩主が知藩事となり廃藩置県まで治める事となった。
※第二次群馬県後、昭和時代に桐生市近辺で足利市と行政境の変更があり、実際の律令時代の上野国とは異なる。
廃藩置県もひと段落し、群馬県としては以降殖産興業に励むべく、各種事業に推進することとなるわけである。
〜以下、執筆中〜
以下、執筆中事項の概要
<明治時代を通じた県知事一覧>
第一次群馬県
初 青山 貞 1871年11月2日〜1873年2月7日(前岩鼻権令)
2 河瀬秀治 1873年2月7日〜1873年6月15日(入間県令を兼任)
熊谷県時代
初 河瀬秀治 1873年6月15日〜1874年7月19日
2 楫取素彦 1874年7月19日〜1876年8月21日(権令→県令)
第二次群馬県
初 楫取素彦 1876年8月21日〜1884年3月30日
2 佐藤與三 1884年3月31日〜1886年7月18日(県令→県知事)
3 中村元雄 1891年4月9日〜1896年1月18日
4 阿部 浩 1896年1月18日〜1896年8月12日
5 石坂昌孝 1896年8月12日〜1897年4月7日
6 古荘嘉門 1897年4月7日〜1898年7月28日
7 草刈親明 1898年7月28日〜1898年12月22日
8 古荘嘉門 1898年12月22日〜1900年10月31日
9 小倉信近 1900年10月31日〜1901年4月2日
10 関 清英 1901年4月2日〜1902年2月8日
11 鈴木定直 1902年2月8日〜1902年10月4日
12 吉見 輝 1902年10月4日〜1906年7月28日
13 有田義資 1906年7月28日〜1907年11月6日
14 南部光臣 1907年11月6日〜1908年8月29日
15 神山閏次 1908年8月29日〜1912年3月28日
16 依田_次郎 1912年3月28日〜1912年12月30日
<上州遷都論>
明治19年に東京の都市計画立案時に外務大臣井上馨と警視総監三島通庸が検討したもの。
首都を上州に移し、皇居は東京にて離宮にするという建議。
群馬県南部12キロメートル四方(現在の伊勢崎市・太田市及び埼玉県の一部)の区域を用いる。
これにより欧米諸国に劣らない首都ができるとしたが予算520万6200円と膨大であったため実現しなかった。
<教育県 西の岡山、東の群馬>
第二次群馬県設立時の初代県令である楫取素彦の文教政策により全国屈指の「教育県」となった。
全国に5校しかない公立女学校の設立、県立幼稚園の開園などがあり、就学率は非常に高かった
しかし、養蚕が盛んな地域だったため家業の手伝いも多く就学率は高くても出席率は全国平均を下回る結果であった。
<養蚕業・製糸業>
官営富岡製糸場の設立に代表される製糸業は、もともと近代以前より養蚕が盛んな群馬の中心的産業となった。
江戸時代末期から上毛産の絹糸は、嬬恋の豪商中居屋重兵衛により開港したばかりの横浜港から盛んに海外に輸出された
これが後に群馬の工業化の源となり、世界屈指の航空機技術メーカーである中島飛行機の基礎となったのである。
<交通の要衝>
古来より近畿と陸奥や鎌倉と北方を繋ぐ要衝であった群馬県であるが明治時代に入っても変わらず。
むしろ、東京から日本海へ抜ける最短路として重要視され高崎を中心とした交通開発は盛んであった。
鉄道路線では上野〜高崎に抜ける日本鉄道(現・高崎線他)が明治17年に、高崎〜直江津に抜ける信越本線が明治26年に開通、
また道路交通も明治天皇の巡行に向けた碓氷峠の開発や、東京都と長岡を馬車で行き来できる清水街道の開削等も行われた。
<自由民権運動>
江戸時代より侠客の多い土地柄であったことからか、明治新政府が樹立し議会が起こると各地で政治結社が立ち上がる。
尽節社、交親会、有信社、協同社、大成社、暢権社、集義社、精成社、不覊社、研智社、博詢社、上毛自由党等
これらの結社は支持層や地域が異なり、たがいに地方議会等で議論を突き合わせていました。
ただ、行動が過激な集団もあり時には政府機関を襲う等の行動も起こしています(例:群馬事件)