国道406号線 高崎市〜嬬恋村



国道406号線

起点 長野県大町市
終点 群馬県高崎市

群馬県内延長 約69km(重複部含む)

重複路線 国道18号,国道144号,国道145号,国道148号,国道292号

「隠れた歴史街道」

起点は長野県であるものの、高崎と西上州をずがんと突き抜ける国道406号
重複部である国道144号部分にて長野県との境である鳥居峠に接する。
一方、反対側の終点は、高崎市内屈指の交通の要衝である君が代橋近辺。

高崎側から鳥居峠まで抜けると、都市部から榛名を遠望しながら遠巻きに走り、長閑な田園風景と森林・河川が交互に入り混じる車窓の景色は一見の価値有りである。

高崎市中心部から旧榛名町内区間については「くだもの街道」と命名され、季節毎に、なし・もも・いちご・ぶどう等の屋台や狩取店舗が軒を連ねる。

それを過ぎて、旧倉渕村区間に入り東吾妻町で須賀尾峠を越えて、長野原町大字林の部分で吾妻川を超え国道145号と直角に交わるまでを「草津街道」と名を代える。
この先は145号と重複区間になり、嬬恋村を抜けて上記のとおり鳥居峠にいたるわけである。

この「倉渕村〜長野原町区間」が歴史街道の本領発揮である。

江戸時代より中仙道として天下の往来を支えていた国道18号ラインを補佐するかのように、現国道406号は「草津街道」もしくは「信州街道」と呼ばれていた。
中山道の脇往還として、善光寺に至るには距離も短くすむことから、とても賑わったであろうことが予測できる。

その中で、「滅び」の美学的な歴史を三つ見ることができる。

(1)権田栗毛終焉の地
さて「権田栗毛って何?」という人も多いかもしれないが、ここは解説
源平騒乱にて活躍した熊谷直実の愛馬が「権田栗毛」である。

一の谷合戦で怪我をした権田栗毛は主の慈悲により生まれ故郷である上州の馬場まで戻る事となったのだが、帰ってみると生家は既に無く困った権田栗毛は結局主である熊谷直実のもとに帰る事とした。
だが、元々が傷ついた身である上に、生家を無くした心労もあってか帰り間際に当地で倒れ息を引き取った。
当地には、権田栗毛を弔うためか馬頭観音が祭られている。
また権田栗毛の主であった熊谷直実も所領争いの結果出家してしまうのである。

ところで「権田栗毛」といえば上州を代表する歴史上の謎の人物である羊太夫の愛馬も「権田栗毛」という名前である。

権田とは地名、栗毛は馬の様子を表す語
名馬の条件として、権田近辺で生まれた栗毛の駒は、すこぶる評判が良いのかもしれない。

(2)小栗上野介終焉の地
徳川埋蔵金や幕末ブームで一躍名が広まった小栗忠順
まあ、生まれは江戸屋敷なのだろうが、旗本としての知行地が上州権田村であった。
斜陽の幕府を支え続け要職を歴任してきた小栗だったが、戊辰戦争の際「敵軍が箱根の関所を越えた所を陸兵にて迎え撃ち、同時に幕府艦隊にて駿河湾からの艦砲射撃で後続の敵軍を攻撃し、箱根内の敵軍を孤立させ殲滅する」と主張するも徳川慶喜に案を退けられ免職させられた。
一説のよれば将軍から直接口頭で免職の命令を下されたのは小栗ただ一人であるとか・・・

それはともかく、もはやこの一件で幕府に居れなくなった小栗は知行地で帰農すべく幕府に願い出て許可の有無に関係なくそのまま権田村に一族郎党を引き連れ住み着いた。
そこでは学問を教えたり治水干拓などをしていたらしいが、江戸を占領した薩長軍が周辺の藩に小栗捕縛を指示。
罪状は同地にて兵を育て内乱を企てているといったものだったらしいがそのような痕跡はない。
また、江戸城から退去する際に数百万両の御用金を運び出したというものもあるが物理的にも不可能であろう。

高崎藩他の藩兵に捕縛された小栗らは、同地烏川の川原でろくな詮議も無く斬首される。

国道406号脇に「小栗終焉の地」を示す石碑(偉人小栗上野介 罪なくして此処に斬らる)がある。
またこの石碑から長野方向に数キロ進んだ箇所に東善寺があり、そこに小栗の墓がある。

西に坂本竜馬があり維新回天の原動となったとすれば、東に小栗上野があり近代日本の礎を築いたといえよう。
詳しくは、また別項で述べたいと思う。

(3)赤城の山の今宵限り
小栗の墓所を過ぎてさらに406を長野方向へ向かうと旧倉渕村を抜け、東吾妻町に入る。
ここから大戸までの区間は民家も多くなく山間部を通り抜けていくのだが、この区間では江戸時代でも最高ランクの任侠人の史跡が残っている。

 ふりかえりの松
 忠治地蔵
 大戸関

とくれば、誰もが知っている天下一の義侠「国定忠治」である。
上州国定村で生まれたとされる忠治は親分大前田英五郎の地盤を受け継ぎ上州を根城に幕府に楯突き、時には民衆に銭を巻き関所を破り放蕩の限りを尽くす日本でも指折りのダークヒーローである。
赤城山高校の右投両打の高校球児ではない。

<赤城山にある国定忠治碑>


本名長岡忠次郎という国定忠治は、上州・信州を中心に賭場荒しや強盗等を繰り返し罪を重ねたが、最終的には関東取締出役に捉えられ碓氷峠破等の罪をもって江戸に移送され取調べの後、大戸の関所にて貼り付けに処された。

ふりかえりの松とは、碓氷破りの前にも忠治は大戸関所破りを行った経緯がある。
江戸時代は関所破りといえば第一級の犯罪であり、現代の高速道路インターチェンジ強行突破とは比較にならないほどの罪である。
しかも「関所破り」である。
こそこそ裏道をとおって「関所を抜けた」わけではなく、堂々と関所に押し入り役人と斬った張ったをしながら文字通り「関所を破りぬける」わけである。

それを行う前に、さすがの忠治も戸惑ったのかこの松のたもとで故郷国定村の方を振替って、考えを決めたとされるのがふりかえりの松である。
そしてその先には人生最初の関所破りを行った場所でもあり、自身が貼り付けにされた大戸関所がある。
現在は国道406号線と県道58号線の分岐に当たる部分に当時の関所の門が再現されている。

<大戸交差点の再現関所>


またその中間点くらいの箇所に忠治地蔵がある。
現在の地蔵は何代目かはわからないが、忠治が斬首されてから10年ほどで地元民により建立されたのが始まりらしい。

忠治に関する地蔵や墓石、慰霊碑は県内にも何箇所があるが、どれもことごとく数年・数十年でなくなってしまう。

なぜか?

忠治に肖りたい者達が削って持って行ってしまうらしい。

<大戸の忠治地蔵。写真は2004年。2010年に見たときは新しくなっていました>


この草津街道にある忠治地蔵は赤城や伊勢崎にあるものに比べ昨今ではメジャーではなくなりつつあると思うが、くれぐれも墓石等を削ったりしないようにして欲しいものだ。

とはいいつつ、自分も削りたくなる衝動があるのも、また事実。

国定忠治は、その義侠心を広く県民に愛され、まさに県を代表する「男」である。

さて、大戸関のある場所を左折すると、そこから先は東吾妻町であり、長野原町に入り須賀尾峠である。
須賀尾峠は道幅も狭く部分的には大きめの車ではすれ違い困難な場所もある。
だが森林に包まれ高地の冷気を浴びるには、適した場所なので夏場のツーリング等はお勧めであろうか。

須賀尾峠を抜け国道145号と接する手前に、おそらくあと十数年すれば左折する道ができるはずである。
八ッ場ダムによる付け替えルート(国道145号複線)が、接するからである。
ダムにより現在の吾妻側左岸側にある145線が当か所では右岸側に付け替えられるためである。

「隠れた歴史街道」国道406号
再評価される日が、果たして来るであろうか・・・

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