清水善造 ~日本人初のウィンブルドン出場~


群馬県群馬郡箕郷町(現高崎市)出身、明治二十四年(1891)~昭和五十二年(1977)

農家の子に生まれた清水ですが、教育熱心な両親により当時の農家にしては珍しく中学校へ入学します。
ただ、決して裕福であったわけではないので片道15kmを徒歩通学し、帰りは牛のえさ用に草刈りをしながら帰って来る生活でした。
この通学の時間を利用して英語の勉強をしたことが後に生きてきます。
また、長距離の徒歩通学や草刈り作業が身体の鍛練となったようです。

その後東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、三井物産に入社した清水は語学力を買われてインドに赴任します。
インドで現地のテニス大会に出場し優勝するなど徐々に日本庭球界での名声があがります。
なおベンガル州大会では5連覇を成し遂げています。

そして、第40回目のウィンブルドン大会(1920)に初出場。
初出場ながらも清水はチャレンジラウンドを勝ち上がり、決勝でチルデンに惜敗。
その後、チルデンはオールカマーズ決勝でパターソンを破り優勝を果たします。
(※当時はトーナメント方式ではない)

翌年のウィンブルドン(1921)でもチャレンジカップを鮮やかに勝ち進み、準決勝にて宿敵チルデンと対決し敗北。
また、同年はデーヴィスカップでも日本代表として参戦し、準優勝を飾ります。
この準優勝は、デーヴィスカップにおける日本の歴代最高成績です。
ちなみに、この時の相手国はアメリカで、清水はチルデンとあたりまたしても敗北。
但し、永遠のライバルであったチルデンとは私的な交流は続いたようです。

1927年に選手としては現役を退きましたが、その後は後進の指導にあたり日本テニス界のけん引役として活躍しました。
デーヴィスカップでは、後に日本選手団の監督を務めました

テニス世界ランキングで、1920年に世界第9位、翌1921年に第4位にランクイン。
全米オープンには1921から1924までの4大会出場し、最高でベスト8。
デーヴィスカップには上記の準優勝を含め、5回出場しています。
こうした活躍は日本庭球界に多大な影響を与え、後に同じ上州から日本人最強のテニスプレイヤーである佐藤次郎が産まれました。
なお、男子テニス世界ランク第4位は、1933年に佐藤次郎が第3位にランキングされるまで、日本庭球界のトップでした。

さわやかな笑顔と紳士的な態度で米英での人気が高く「スマイリー・シミー」「ミスター・シミー」と愛されました。
また、試合中に転びかけた相手選手が打ち返し易いような返球をする態度は絶賛され、戦後日本では教科書でも用いられる話になるほどでした。

当時はプロ制度が無い中で、日本のテニスプレーヤーの第一人者として終生テニスを楽しみながら、三井物産から三井生命に移り、取締役まで進み退任。
退任後は貿易会社を営む等の生活を行いますが、昭和五十二年に逝去しました。

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