世良田義季 〜徳川(得川)氏の遠祖〜


生没年不詳

新田義重の四男で、世良田郷や得川郷を相続しました。

生没年不詳であまり資料がありませんが、吾妻鏡にある「徳河三郎義秀」と同一人物であろうといわれています。

義季には二人の息子があり、頼有が得川郷を、頼氏が世良田郷をそれぞれ継承したと伝えられています。
ここに言う「世良田頼氏」が三河松平氏の先祖であり、それを根拠として松平家は源氏の血縁であるという流れから征夷大将軍となるべき血筋であるという証明につながり、徳川家康が将軍宣下を受ける資格を持った・・・という流れだったと思います。

この当りの解釈は、諸説が入り乱れておりなんとも判断つきませんが。

ただ、義季が世良田郷を継承した事は「新田義重譲状」という、いわゆる義重の遺言状にかかれていますが、実はこの遺言状や、この遺言状に関連する「正木文書」という資料には「得川」という地名は出てこないそうです。

ですから、義季を「得川義季」と呼称する場合もあるようですが、この場では「世良田義季」で統一させて頂いております。

では、「得川」という地名は?

これは良くわかりませんし、実際にあったかもしれません。
前述した頼有に継承した事から、義季の時代に新規で開拓したのかもしれません。

謎は多いのですが、徳川家が遠祖としているので、日本の歴史を語る中では重要かもしれません。

ちなみに、息子の世良田頼氏は、新田宗家の新田政義が京都大番役の途中で勝手に出家してしまい、新田惣領は世良田氏が継ぐ事になり、そのときに新田宗家の地位を受けたのがこの頼氏と言われています。

余談ですが、ずず〜っと時代を下って平成15年に発生した有栖川宮詐欺事件。
逮捕された犯人の裁判において有栖川宮妃を僭称した女性が、夫の偽有栖川の家系につり合いをとるためかどうかは知りませんが「八百屋を営んでいる夫の実家は源義季の末裔である」と供述したようです(出典:wikipedia)
有栖川家を僭称しているのに、実家が源家の末裔って荒唐無稽も甚だしいですけど、家系を偽られやすい位置にいるんですかね、新田系列わ(笑)

トップに戻る  / 人物に戻る

inserted by FC2 system