新田義重 〜家康に続く新田の祖〜


保延元年(1135)?〜建仁二年(1202)
源氏の礎を築いた八幡太郎源義家を祖父とし、その義家の三男である義国の長男として生まれたのが新田義重です。

さて、父である義国が上野国新田荘と下野国足利荘に勢力を築きま二人の息子にそれぞれ領地を分けて相続し、上野国側を相続したのが新田義重と言うわけです。

義重は新田荘やその周辺を開発し、その土地を公家に寄進したりしながら次々と勢力を拡大します。

その中で保元・平治の乱等を過ぎて源頼朝が平氏打倒で兵を上げるわけですが、義重も負けじと新田荘で兵を募り参軍します。

それもそのはず、源氏の棟梁が敗残の義朝系列だとは誰も決めてませんので。
しかもこの時の血筋でいけば、義重は源家の英雄にして「花」と歌われた源義家の孫に当たり、木曽義仲、伊豆頼朝等に比べれば源家の血は一番濃い立ち位置にいました。
また、北関東においては主導的立場にあったという立場等も絡んだ事でしょう。

それでも、義重は積極的に平家討伐に動き出す事はなく、日和見主義的な行動をとってしまいます。
真意としては、新田荘はもともと平家方の荘園であった事や、新田氏と隣国信濃の木曽源氏とはあまり仲が良くない事もあり、上野をあまり出たくは無かったのかもしれません。
しかも、紆余曲折はあったにすれ、木曽義仲の京攻略までは義仲と頼朝は同盟関係にありました。
このことも、義重の癪に触ったのかもしれません。

ですが、結果として源頼朝が天下を掌握してしまいました。
そして当然の成り行きかもしれませんが、鎌倉幕府成立後に新田氏は冷遇され続ける事になります。

それは当然とも思える措置でしょう。
義重の取った行動は頼朝からすれば許しがたいわけで、義重は幕府の中で重要な地位に付く事はありませんでした。
そして新田氏は鎌倉幕府時代、日の目を見ることはありませんでした。
対する下野の足利氏は早期から頼朝の下に参陣したり、北條氏との血縁を強めたりするなど幕府の中では一定の地位を確保します。
こういう点から来る「怨念」のようなものが、後に爆発することになるとは、当時の人たちは想いもよらぬ事でしょう。

最終的に頼朝の下に参陣する義重率いる新田氏ですが、当初は中々受け入れらず頼朝の側近の一人である安達盛長の取り成しでようやく参陣が認められるといった状況でした。
また、義重の娘である祥寿姫という者がおりました。
祥寿姫は最初、源家の直系筋である源義平(源義朝の嫡男)に嫁いでいましたが、義平は平治の乱にて敗北し斬首され未亡人となっていました。
義平は頼朝の異母兄にあたるのですが、祥寿姫の美貌に目を付けた頼朝は姫を側室に請うたのですが義重はこれを拒否しています。
これも、義重が頼朝の不興を買った一因とも言われています。
兄嫁欲しがるって頼朝ってば・・・・

さて、義重には5名の息子がおり、長男義俊の子孫はその後千葉に移り里見氏となります。
次男義兼は、新田本家を継ぎ、三男義範は幕府に仕え、後の山名宗全の先祖となります。
四男の義季は世良田郷を継ぎ、徳川家の祖となったと言われております。
そして五男経義は新田荘の一部を引継ぎ、後に額戸氏を名乗ります。

吾妻鏡や尊卑分脈で没年齢が違う(=生年が違う)のでなんともいえませんが、上野新田で建仁二年に没した事は確かのようです。
その頃、ライバルにすら思われていないでしょうが、源氏の棟梁源頼朝は既に無く、息子の頼家の時代になっていました。

そして、義重の次男義兼の家系に、新田義貞が生まれるわけです。
義重から下る事、7代後の話になります。

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