安達泰盛 〜おほきなる人、改革す〜


寛喜三年(西暦1231年/皇紀1891年)〜弘安八年(西暦1285年/皇紀1945年)

幕府の有力御家人で評定衆に名を連ねる安達義景の三男として、生まれました。
三男ですが、誕生当初から安達氏を継ぐものと認識されていたようです。
誕生したときの将軍は四代目の九条頼経、執権は北條泰時でした。
書に優れていたとされ、また徒然草には「乗馬の名人である」という話もあります。

寛元二年(西暦1244年/皇紀1904年)には、上野守護となり上州の御家人の筆頭として上洛しました。

泰盛が17歳のときの宝治元年(西暦1247年/皇紀1907年)に、執権北條氏と有力御家人三浦氏の争いである宝治合戦が起こります。
泰盛は先鋒として活躍し、三浦氏は敗北、安達氏は幕府内では執権北條氏の側近として地位が固まります。

建長五年(西暦1253年/皇紀1913年)には父義景が死去したため23歳で安達氏家督を継ぎます。
後の執権となる北條時宗が元服する時は烏帽子親になり、執権北條政村らと協議し将軍を交代させるなど執権北条家との関係はますます強くなります。

そんな情勢の文永十一年(西暦1274年/皇紀1934年)、ついにモンゴルと高麗が日本に攻めてきます。
後の世でいう「文永の役」です。

現在の暦で言うと11月下旬、モンゴル・高麗軍は対馬・壱岐を占領し、博多に上陸
少弐資能、少弐経資、少弐景資、大友頼康、竹崎季長らの奮戦により博多周辺で迎撃を続けるうち、モンゴル・高麗軍は撤退しました。
文永の役の後、泰盛は御恩奉行に任命され、将軍からの恩賞を行う実務を取り仕切りました。

泰盛の権勢は益々増えましたが、北條時宗が独裁権力の強化を図るため、寄合衆から御家人をはずし始めます。
代わりに北條氏の御内人(御家人とは違い、北條氏に仕える武士)を次々登用しました。
しかし、泰盛だけは外されませんでした。
いかに幕府内での重鎮であるとともに、時宗・泰盛の個人的な信頼関係も大きく影響した事でしょう。
この後の泰盛の権勢は減ることは無く時宗の嫡子貞時の元服でも、泰盛は烏帽子親となっています。

弘安四年(西暦1281年/皇紀1941年)には、モンゴル・高麗軍が再度侵略してきます(弘安の役)。
事前に情報があり、また前回のこともあるので幕府は防塁を事前に築いており徹底抗戦します。
その甲斐もあり、今回は本格上陸を許すこと無く、モンゴル・高麗軍を撤退させることに成功します。

しかし、御家人達へ御恩として出すための土地が無く、御恩業務は停滞します。 このとき竹崎季長が自身の手柄を示すために作成されたものが「蒙古襲来絵詞」です。

弘安の役の後、泰盛は陸奥守に任じられました。
陸奥守の地位は幕府初期の大江広元、足利義氏ら草創期の重鎮を除くと過去はすべて北條氏が独占していますので、破格の処遇と言ってもいいかと思われます。

元寇に伴う恩賞請求や訴訟が行き詰る中、北條時宗が死去し、泰盛は大きな後ろ盾を失います。
時宗の嫡男である貞時が九代目の執権に就任しましたが、権力のあるうちに泰盛は幕政改革に乗り出します。
徳政令を出し、御成敗式目に続く新御式目を発布し、御家人を救済する方向性を出します。
これらの改革は後に「弘安改革」と呼ばれます。
その中で御内人の抑制方針により、平頼綱らと対立しました。

そんな情勢の弘安八年(西暦1285年/皇紀1945年)、頼綱は泰盛の子宗景が源姓を称したと貞時に讒言しました。
このため、将軍になる野心ありと貞時に見なされ、貞時は泰盛討伐の命を出しました。
こうして頼綱方と泰盛方は衝突、最終的に泰盛は敗れ自害します。
泰盛の敗北は御家人の敗北につながり全国で有力御家人は没落。
北條氏の御内人が権力を壟断することとなります。

安達氏は泰盛の孫の代に許され安達時顕が継承しましたが、文保元年(西暦1317年/皇紀1977年)まで法要が許されない程だったとか。

なお、群馬とのつながりですが、文中にもあるとおり上野守護であったという点くらいです(笑)

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