和田英 〜工女から技術者へ〜


安政4年(西暦1857年/皇紀2517年)〜昭和4年(西暦1929年/皇紀2589年)

官営富岡製糸場で伝習工女として働き、後には信濃の製糸場「六工社」に赴き紡績の指導者となった人です。

松代藩士横田数馬の次女として、現在の長野県長野市に生まれます。
生まれた当時は明治維新前ですが、英が11歳の頃明治維新を迎え、世の中はご一新、殖産興業、富国強兵に邁進します。
その中で、上野国の富岡に生糸の紡績工場であり、全国の生糸生産工場の先駆けとなる「官営富岡製糸場」が出来ます。
製糸業のために、政府は全国で工女を募集しますが、当時は「異人に血を吸い取られる」等の噂が広まったため、中々人が集まりませんでした。
そこで、政府は各県に募集人員を割り当てました。
横田英は、父が松代の工女募集責任者あったこともあり工女として富岡に向かうことになりました。
初めて富岡製糸場に着いた際の感動を、後に「富岡日記」に英はこう記しています。

『富岡御製糸場の御門前に参りました時は、実に夢かと思ひます程驚きました。
 生まれまして煉瓦造りの建物など、まれに、にしき絵位で見るばかり、
 それを目前に見まする事でありますから、無理もなき事かと存じます。』

1年あまり富岡製糸場で伝習した後、信州にて日本初の民営機械製糸場六工社の創業に参画。
富岡製糸場で学んだ製糸技術を他の工女に伝え指導者として活躍します。

その後、和田誠治と結婚し、過去の記憶を『富岡日記』として著作しました。
現在、長野市にある生家は「旧横田家住宅」として国の重要文化財として保存されています。

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