上毛野牛甘 〜万葉に残る防人の想い〜


上毛野牛甘・・・「かみつけの-の-うしかい」と読みます。
生没年不詳ですが、奈良時代の防人で、天平勝宝七年に防人として筑紫国に派遣されたそうです。
天平勝宝七年は「七歳」とも表現され、西暦でいうと755年のこととされています。

防人(さきもり)とは、主に東国で徴兵され北九州に交代制で派遣される兵士のことです。
旅費・食事・武具等はすべて手弁当、税金もしっかり徴収されることから過酷な賦役であることがわかります。
そのため、万葉集には防人が詠んだ歌が数多く記されており、それらは「防人歌」として分類されています。

牛甘の歌も一首、万葉集の20巻に残されており、計らずもそれが牛甘の名を歴史に残しました。
天平勝宝七歳は、万葉集の選者の一人である大伴家持が兵部省の役人となっていて「防人の歌を集めよ」と全国に御触れを出しました。
そのために、この年に記録されている防人歌が万葉集20巻に多く整理されています。
上州では防人を集める仕事に従事している上毛野駿河と言う人が上州から十二首提出し(うち万葉集採用は四首)、その中の一つが牛甘の歌でした。
それでは、牛甘の歌をお読みください。

「奈尓波治乎 由伎弖久麻弖等 和藝毛古賀 都氣之非毛我乎 多延尓氣流可母 右一首 助丁上毛野牛甘」

はい、読めませんね(笑)・・・まぁ、当時は漢字に仮名をあてて読んでいたので原典はこんな感じです。
現代の読み方に直すと↓になります。

「難波道を 行きて来までと 我妹子が 付けし紐が緒 絶えにけるかも」
(なにはぢを ゆきてくまでと わぎもこが つけしひもがを たえにけるかも)

難波道とは東国から西に向かう街道、我妹子とは細君を指しており(多分)、意訳するとこんな感じ。

「難波を通る西への道を、行って帰って家に来るまでと、妻が結んでくれた紐が、切れてしまったなぁ・・・(切れてしまうかも)」

牛甘の「無事に帰れるだろうか」とか「この紐のように妻との縁も絶えてしまうのかなぁ」という苦悩が歌に込められているように思います。
防人は3年交代とはいえ、その勤務の最中に何かあれば最前線の兵士として戦わなければなりません。

ちなみに「助丁」とは「すけのよぼろ」と読み、国造という役職の下について仕事をする人の事のようです。

歌のみ伝わる上毛野牛甘、無事に任期を終えて再び故郷である上州の地に足を踏み入れていると信じたいものです

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