豊城入彦命 ~上毛野氏の祖~


生没年不詳

豊城入彦命 (とよきいりびこのみこと)は、古事記・日本書紀両方に名が出てくる皇族です。
日本書紀では豊城命とも書かれ、古事記では豊木入日子命と記されています。
実存性は不明ですが、崇神天皇の皇子とされ、母は荒河戸畔の娘・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)。
活目入彦尊(後の垂仁天皇。活目尊とも。古事記では伊久米伊理毘古伊佐知命)の兄です。
主な事績は日本書紀に詳しく、父である崇神天皇は和名を「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれており、神武天皇と同音なので実存する最初の天皇とも言われています。
(ただし、日本書紀による年代には諸説あり、実存についても研究者で意見は分かれています)

以下は日本書紀の記述です(日本書紀第五巻)
崇神天皇の治世四八年目の春に、天皇には後継ぎにしたい皇子が二人いました。
兄の豊城命と弟の活目尊です。
父である崇神天皇は二人とも大事に育ており、どちらも優秀であることからある事から後継者を一人に絞れず悩んでいました。
あるとき天皇は、二人が見た夢で夢占いを行って後継者を決めようとしました。

兄である豊城命は「自ら御諸山(みもろやま=三輪山)に登って東に向かい、槍や刀を八回にわたって振り廻し撃つ」という夢を見ました
(自登御諸山向東而八廻弄槍八廻撃刀:文字はフォントの関係で多少原文とは異なります)

弟である活目尊は「自ら御諸山に登って、山の嶺から縄を四方に向かってはなち、粟を食べる雀を放逐する」という夢を見ました
(自登御諸山之嶺縄絚四方逐食粟雀:文字はフォントの関係で多少原文とは異なります)

二人のこの夢を聞いた天皇は、兄・豊城命は東方に派遣し治めるように伝え、弟・活目尊が後継ぎとする事と定めました。

崇神天皇は、この逸話に先立つ三十年ほど前には四道将軍を派遣し、大和の周辺を征服した天皇とされています。
実際の年代は不明な点が多いのですが、大和王権が日本列島各地方を支配下・影響下に置き始めた事を示唆していると解釈できる内容です。

ただ、日本書紀の年代をそのまま信じるなら、崇神天皇四十八年は西暦に直すと紀元前50年になります。
邪馬台国の時代の300年近く前、ちょっとアレですね(^^;
まぁ日本書紀の年代計算は諸説ありますので、ここで細かい話をすることはしませんが古事記と同様「深く疑うべきにあらず」という事でしょう。
豊城入彦命が、東方治定を託されたという事を日本書紀が述べているという事実のみが、重要性を持つと小生は考えています。

実際に命が上州まで来たかどうかという点については、疑問は残ります。
ただ、命は後の毛野氏(上毛野氏・下毛野氏)の祖先として古事記に記されており、まるきり上州と無関係であったとは言い切れない面があります。
前橋にある大室古墳群もしくは総社二子山古墳は、この豊城入彦命の陵墓であったという伝説が残っています。
二子山古墳には実際に明治初期まで墓守が置かれていたという話もあります。
大室古墳については、県埋蔵文化財調査事業団の発掘調査報告でもふれられています。
(参考HP:大室古墳群、豊城入彦命の陵墓と伝説の残る場所
なお、大室古墳群や二子山古墳等、豊城命の陵墓と伝説が残る古墳の年代は概ね5~6世紀です。
そうなると、今度は日本書紀の年代に諸説ありと言っても、少し遅すぎるかなぁ~という感じでしょうか。
6世紀と言えば、既に欽明天皇や敏達天皇の時代ですからねぇ。

さて、東国を治めよとされた豊城入彦命は上述のとおり、毛野氏の祖先とされた他、東国六腹朝臣(上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、池田朝臣、車持朝臣、大野朝臣)の他にたくさんの後裔がいます。
また、赤城神社の主祭神として県内はじめ全国各地で祭られていたり、下野では二荒山神社の祭神ともなっています。

天皇の実存性や年代の不明確さ、大和王権の他の地方政権の存在の可能性等も考えると、元々毛野氏の長で東国を治めていた人物が記紀編纂期に皇族に組み込まれた可能性なんかも想像してしまいますね。
それが豊城入彦命だった・・・かどうかはわかりませんが。

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