徳川忠長 〜その才は、才なるがゆえに身を滅ぼす?〜


「才は身を滅ぼす」という言葉は、出典不明だけど、なんか流布していますな。
いわゆる三国志演技の「鶏肋」の故事にある楊修の事のような「才故に滅ぶ」的な話でしょうか。

慶長十一年、江戸城西ノ丸にて生誕。
長ずるに眉目秀麗、才気煥発として父・秀忠と母・崇源院に愛されて育ちました。
既に兄がおり、兄(後の三代将軍家光)には福(春日局)が乳母として以上の関係をもって養育しており、国松(幼名、異説あり)は当時としては珍しく実母の下で養育されたようです。
でも乳母はいまして、土井利勝の妹の朝倉局という人とか。

兄である竹千代は病弱で引っ込み思案、吃音との話もあり。秀忠夫妻の期待は二男である国松に向けられます。
しかし、竹千代の乳母である福は不憫な竹千代を思い駿河の家康に直談判し「長幼の序をもって家光こそが三代目」みたいな事にしたとさ(笑)

まぁ、実際に福(春日局)の行動が功を奏したかどうかは分かりませんが、後継者問題は一件落着。
同時期に兄弟とも元服し、国松は「徳川忠長」と称する事になりました。
元服と同時に従四位下参議兼右近衛中将上野介を拝領しました。
お、上野介!上州とのかかわりが早くも出てきましたね。
・・・ってかこれは何かのフラグでしょうか・・・

元服の後、父母を喜ばせようと江戸城内で鴨を鉄砲で打ち、鍋に処しました。
最初は喜ぶ秀忠ですが、鴨を狩ったた場所が家光の住む西の丸の近くの池である事を聞くと食すことなく忠長を諭します。
「兄に向けて鉄砲を打つと同じ事であるぞ」ってなことでして、既に元服段階で後継者問題は解決していたようです。

その後、元和四年(二年とも)に甲府二十二万石を拝領し大名へ。
さすがは将軍御連枝、わずか十歳やら十二歳やらで大大名でございますよ。
同じく元和年間に織田信勝の孫娘(つまり信長のひ孫)を嫁に迎え、寛永元年には駿遠を加増され五十五万石の大大名に。
御三家に匹敵するかの権勢を得て、権大納言に任官。
この頃から「駿河大納言」と呼ばれるようになります。
時に忠長年齢にして十八、十九のみぎり、まさに絶頂期でございましょう。

幼少のころより才気煥発であった忠長は、その才を遺憾なく発揮し領国経営に邁進します。
大井川に船橋をかけたり、駿府城下の整備を行ったりと。

寛永三年に忠長が上洛中のとき、母である崇源院(お江の方)が亡くなります。
この頃から、様子がおかしくなってきました。
母の逝去が心に堪えたのでしょうか。

浅間神社の聖域で神獣である猿を狩ったり、些細な事で家臣を手打ちにしたり、よからぬ風説を流したりetc.etc....

これらを理由に寛永八年、ついに甲府蟄居を命じられました。
いわゆる「兄弟げんか」のような意見もたまに見受けられます。
が、いまだ大御所である前将軍徳川秀忠は病中とはいえ存命ですので、実際のところは秀忠の行動が目に余ったのも事実でしょう。

駿河城に秀忠ある頃、西国の大名が参勤交代の際東海道を通る場合は必ず駿府を通りますので駿河大納言へのあいさつは欠かさなかったとか。
こういう事も、幕府にとっては都合の悪い事だったのでしょう。
なまじ秀忠は幼き頃から才能は兄に勝るとみなされているだけに、余計な疑いは増加するばかりなり・・・とか?

大御所秀忠が寛永九年に没すると、待っていたかのように秀忠は甲府蟄居から領国没収の上で上野国高崎藩預かりの身となりました。

上野預かりとなった決定的な理由の一つと言われるのが「怪文書」と言われています。
曰く「現在の将軍を廃して、忠長を新しい将軍にしよう」と言った内容の書状ですが、これは出所不明なまさに「怪文書」
この怪文書を受け取ったにもかかわらず届け出しなかった肥後国熊本蕃加藤家は改易となっているとかなんとか。
実際に寛永九年に加藤家は改易となるが、その理由は当主の嫡男光広が「徳川を討ち将軍になる(笑)」という悪戯文に花押を書いたからとか。
なんか話がごっちゃになりますが、加藤家の改易の話に忠長が一枚かんでいたという「雰囲気」になってしまいます。
実際は決してそうではないんですが、改易直前に加藤家に仕えていた春日局の弟が暇乞いを出してその後幕府の旗本になっているという事実もあります。

忠長の乱行にも一面の真実性を感じますが、なんか「家光の対抗馬は処分しておきたい」という将軍や幕閣の陰謀めいた何かを感じずには居られません。
乱行にも反対の視点があるものもあります。
たとえば「浅間神社の猿狩り」の話は、近隣の農民が猿による農地荒らしに困っているものの神獣であるから駆除できないものを見るに見かねて忠長が行ったという話も。

忠長自身は自らの赦免の望みをかけて天海や崇伝らに書状を送っていたようですが功を奏さなかったようです。
そして寛永十年、ついに自害の幕命が下り、忠長は腹を召しました。
享年二十八とのこと。

新井白石により江戸中期に記された「藩翰譜」には忠長の最期の場面が記されています。
忠長は夜に酒を飲んでいる最中、側に仕えていた童女に酒と肴を持ってくるように命じ、童女を部屋から出します。
童女らが酒肴を揃え部屋に戻ると既に忠長は小袖を血に染めて息絶えていたとか。

忠長は異母弟である保科正之を、父に対面させるべく奔走したり、正之を自分の城に招く際に恥をかかせぬよう配慮したりする面もありました。
ただ、幼き頃の後継者問題での葛藤や愛してくれた母の死、その後の兄の態度等で精神の均衡がくずれてしまったのでしょうか。

亡骸は上州高崎の願行山常巌院大信寺に葬られますが、罪が赦免に至ったのは実に四十三年後の家光の子である四代家綱の時代。
許されても幕府に憚り鎖につながれていたそうです。

兄弟仲良く江戸と駿府で活躍しておれば、綱吉後の後継者問題に変化があったかもしれませんねぇ・・・

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