守随彦三郎 〜東日本の秤の一角〜


生年不詳〜元禄十六年

守随家は江戸時代に東三十三カ国の秤座として、幕府より公認を得た秤業社でした。
秤の製造販売や点検確認の特権を持ち、秤座が認可していない秤を用いる事は認められていませんでした。
江戸幕府は秤座による計測機器の統一性の確保により、度量衡を統一していたのです。

彦三郎は、そんな守随家四代目彦太郎の三男として生まれました。
当時の秤座は守随家が東三十三カ国、神家が西三十三カ国を担当していました。
(後、神家が起こした訴訟により神家が廃され、守随家が日本中の秤を統括するようになります)

東三十三カ国を守随家が担当するとなると、それはそれで江戸だけでは無理なので秤座の出店を四十一か所に出します。
ですが、それでもその全てを江戸秤座で管理するのは相当難儀であったようで、ついに「地方秤座(支店)」を出すこととしました。

地方秤座は二か所と定められます。
ひとつは名古屋、そしてもう一つが高崎に決まります。

元禄十二年に彦三郎は高崎秤座の名代として抜擢されることとなりました。
この後、高崎秤座は幕末に至るまで地方秤座名代役の筆頭として秤の製造等を行うこととなります。
彦三郎の細かい事績は不明ですが、高崎大信寺に墓があることから死去するまで高崎で仕事をしていたと推察されます。

墓石の右側面には「元禄十六年癸末年四月初六日俗名守随彦三郎墓」とあります。
高崎在住はわずか四年間のようですが、幕末まで続く高崎秤座の礎を築くために尽力したことでしょうか。
なお、高崎秤座は彦三郎より後、分家であるため守随姓は名乗らず荒木姓を名乗ったようです。

余談ですが、初代守随信義は、武田信玄の嫡男である武田義信の子であるという説があるため、彦三郎も信玄の血を受け継いでいることになりますでしょうか。

トップに戻る  / 人物に戻る

inserted by FC2 system