割田重勝 〜時代に取り残された忍び〜


生年不詳〜元和四年(1618年)

真田氏に仕えた忍びの者の一人と言われています。
ただ、忍びとはいいつつも智勇にすぐれた武将であったようで、吾妻七騎にも数えられています。
娘が、同じく真田氏に仕えた忍びの者である唐沢玄蕃(二代目)に嫁いでいます。

いつから真田氏に仕えたのかはわかりませんが、真田昌幸が当主となってから沼田攻めの頃には既に旗下にあったようです。
岩井堂や嵩山城等の守備を命じられていたようです。

余談ですが、小生の吾妻出身の知り合いにも「割田」という名字の人が何人もいます。
あのあたりでは多い名字のようですが、関連がありそうですね。

逸話としては、北條氏と真田氏が上州で争っていた頃の話があります。
戦場働きの為に、良馬に見事な鞍を求めて敵陣をみると、松田尾張守の馬が見事で鞍も素晴らしいものでした。
重勝は一計を案じ、大豆売りの振りをして馬番の若侍をだまし、鞍ごと馬を乗って自陣に帰ったという話が「加沢記」にあります。

そんな重勝も時代の趨勢には勝てませんでした。
関ヶ原の折は、真田昌幸ではなく嫡男で徳川方についた信之の元に身を置き、その後徳川氏による豊臣排除後の安定の時代が来ます。
既にこの頃では、忍びの技は戦場で用いるようなことは無くなり、重勝は真田家を離れ郷里吾妻に隠遁していました。

時折、喰う為なのか盗みを働く事もあり、このころ沼田・吾妻・上田を領していた旧主である真田氏の役人に追われてしまいます。
結局、鹿野和泉という者に打ち取られたようですが、報告を受けた旧主信之は

「割田の盗みは、わしがさせてしまったようなものだ」

と嘆いたそうです。

盗人として討たれたにもかかわらず、中之条町には今も割田重勝の墓が残っているようです。

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