佐藤次郎 ~日本人最強のテニスプレイヤー~


群馬北県群馬郡長尾村(現渋川市)出身、明治四十一年(1908)~昭和九年(1934)

佐藤次郎は、日本の男子テニス選手で、戦前に活躍しました。
明治維新以降、日本は欧米の文明を盛んに取り込みますが、スポーツも同様に明治期以降どんどん日本に入ってきました。

そんな中、上州からは日本初のウィンブルドン準優勝という快挙を成し遂げた清水善造選手が現れます。
清水の出現は日本中のテニス愛好家の刺激となったことでしょう。

佐藤は、清水が初めてウィンブルドンに出た時は小学生でしたが佐藤は既に小学生時代から棒に板を付けた簡易的なラケットで同級生や上級生、教師とテニスを行っていました。
自宅でも土蔵の壁で兄と二人で壁打ちに興じたりもしていたようです。
ちなみに、佐藤家は裕福な農家で、七人兄弟で兄以外はすべて妹という家庭でした。

勉学もできたようで佐藤はそのまま旧制渋川中学校(現:渋川高等学校)に入学しテニス部に入部します。
新入部員の頃からグラウンドの整備等を熱心に行い、テニス環境の改善に勤しんでいたそうです。

大正十五年には早稲田高等学院(現:早稲田大学)に入学し、それまでは軟式テニス主流の経験だったのですが、ここで初めて硬式テニスを本格的に練習します。
在学中および卒業後、佐藤は日本の庭球会で徐々に頭角を現し、昭和六年には全日本選手権シングルで優勝を果たします(ちなみに翌々年にはダブルスでも優勝)。
その勢いで世界の荒波に飛び込み、体格的には(当時の日本としては大きいものの)海外の選手に劣りながらも技巧をこらし活躍を始めます。

この翌年から三年連続で出場したデーヴィスカップではシングルス14勝4敗、ダブルス8勝2敗。
全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドンでそれぞれ最高ベスト4、全米オープンでも四回戦まで残っています。
ちなみに、グランドスラムでのベスト4進出5回という記録は日本人女子を含めても日本過去最多です(クルム伊達公子でも3回)。
また、ウィンブルドンダブルスにて布井良助とのペアで準優勝、全豪オープンでも混合ダブルスで準優勝(ペアはメリル・オハラウッド)に輝いています。
その顔つきから「ブルドッグ佐藤」という愛称を受けながらも紳士的なプレースタイル等で海外の人からも好印象を受けていました。

男子テニス世界ランクでは昭和六年に9位にランクインされてから二年後の昭和八年についに世界ランク3位に登ります。
これは、大正十年に清水善造が第4位にランクインした事を上回る日本最高記録です。
日本中が快挙に沸くなか、佐藤の中では上記のような輝かしい記録よりも重大な想いが心に溜まり始めたようです。

責任感の強かった佐藤は、デーヴィスカップが「国別対抗戦」であることを危惧し、負けた場合に日本という国と天皇陛下に迷惑がかかるのではないか?と悩んでいたようです。
また、過去の記録でも同大会では優勝できていない事が、さらに懸念材料になった事と推察されます。
婚約を発表するという慶事があった後、昭和九年度のデーヴィスカップ大会での移動で、マラッカ海峡を航行中に船舶から海中に投身自殺を図ります。
享年二十六歳という若さでした。

世界ランク男子三位という記録は、いまだに日本最高峰として君臨し続けています。

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