長尾憲景 〜謙信越山の裏方役〜


永正八年〜天正十一年

総社長尾氏の当主である長尾顕忠の子として生まれたそうです。
初めの頃は景房と称していましたが、関東管領上杉憲政の偏諱を受けて憲景と改名しました。

その後、白井長尾氏の当主である長尾景誠の養子となりました。
長尾景誠は長野業政の甥でしたが、白井長尾氏の家督を継いだ翌年に家臣により殺されます。
景誠に実子がいなかったため、景誠の伯父である長野業政が方々に調整し、憲景が白井長尾氏の当主となりました

長野業政が死去すると、武田信玄が着々と西から攻めてきます。
負けじと上杉謙信も越山を繰り返し、白井領から見れば南東にある新田荘にいる由良氏は北條の息がかかっている現状。
関東騒乱の中心地でもある上野の、そのまた中心にある白井城にいた憲景は謙信の援助を受けながら必死で戦いぬきます。
途中には厩橋城代であった北条高広が北條氏に寝返るというハプニングもあり、西の吾妻・南の厩橋に挟まれる形になる白井領。
それでも、憲景は謙信を袂を分かつ事はありませんでした。

もともと、上杉謙信も長尾氏。
上杉憲政が家中を束ねる事なく北條氏から逃げ出す前から、幾度となく長尾氏どうしの交流はあったようです。
越後長尾氏と白井長尾氏は互いに同盟関係にもありました。
憲政が越後に逃亡した際には「白井・総社の両長尾氏が従った」という話もあります。
また、平井城から越後に向けて移動するには、必然的に白井領内は通り道になります。
何らかの形で長尾憲景が、長尾景虎と上杉憲政のパイプ役を務めた事は想像に難くありませんね。

その後、憲景率いる白井長尾氏は、謙信の越山の度、謙信に従って憲景は各地を転戦します。
情勢は安定しないまま永禄十二年に武田信玄により吾妻郡を任せられた真田幸隆が白井城に迫りました。
憲景は善戦するも、名手幸隆の前に一時城を退去し、利根川対岸にある八崎城に逃れます。
同年越相同盟がなったことで、幸隆は不利を悟ってか吾妻に退き、憲景は白井城に復帰することとなります。
上杉謙信の越山が止むまでは何度も戦場を行き来する憲景ですが、天正六年謙信病没。
上杉氏の内紛(御館の乱)では、上杉景虎方として戦いますが、終わってみれば負け組。

乱の結果、新・上杉家は完全に上野から手を引いてしまい、武田・北條両家による上野分割統治が起こります。
ここで憲景は仇敵である武田氏に与することとしました。
よほど北條氏が嫌いだったのでしょうか?
(でも、それなら御館の乱では景勝に味方すればいいと思うけど)

しかしその後、武田氏が滅亡し、織田家から滝川一益が来ると憲景は従います。
・・・が、天正十年六月二日、本能寺の変。
滝川一益は、神流川で北條氏に敗北、滝川支配は半年程度で終焉し、ここぞとばかりに北條氏が上野制覇に乗り出します。
事、ここに至り白井長尾氏当主長尾憲景は、北條氏の下に付くこととしました。

翌天正十一年に憲景は没しました。
謙信死去後は、あまり張り合いのない人生だったかもしれませんねぇ・・・

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