上泉信綱 〜兵法新陰、軍法軍配天下一〜


永正五年(西暦1508年/皇紀2168年)〜天正5年(西暦1577年/皇紀2237年)※諸説あり
 
新陰流開祖であり、天下第一の剣聖として有名です。
上泉氏のルーツは、秀郷流藤原氏とも河内源氏の一色氏とも言われはっきりしません。
信綱の4代前の上泉義秀のとき、上州上泉に土着し、上泉城を築きます。
上泉氏は代々「剣豪一家」であり、初代義秀は剣術中条流、時秀は鹿島流、義綱は鹿島神道流をマスターしていたそうです。

元々は秀綱と言う名でしたが、武田晴信(信玄)より一時を拝領し信綱と名乗るようになりました。
剣豪一家ですから、信綱は幼少期より剣を学び、十代の頃に鹿島神道流の松本備前守の下で剣を学び天真正伝神道流の奥義を授けられました。
また、上州に戻ってからも愛洲移香斎に陰流を学び、やがて新陰流を起します。

上泉氏はもともと大胡氏とのつながりが深く、初代義秀が上州に来たもの大胡氏を補佐するためという説もありますが、戦乱の時代、大胡氏ともに関東管領家に属し、箕輪長野氏と同盟します。
やがて、箕輪城主の長野業政の将として武芸者としてだけでなく、一軍の将として兵法者として頭角を上げ「上野国一本槍」との感状を与えられます。
まぁ、この感状をだしたのが業政なのか業盛なのか時代がわからないのでなんとも言えませんが。
「長野十六槍筆頭」とも呼ばれましたが、他の十五人が誰なのかわかりません。

武田氏の猛攻で長野氏が滅び箕輪城が落城すると武田晴信の仕官要請を断り、諸国へ剣術修行に出る事になります。
このとき、神後宗治や疋田景兼を連れていたそうです。

伊勢では「剣豪大名」北畠具教と会合しその紹介で宝蔵院胤栄と柳生宗厳と会うため大和国を目指します。
大和では胤栄と信綱が仕合って圧勝。胤栄は「ほとんど何も出来なかった」そうです。
また、その胤栄立会いのもとで当時「畿内随一」と称された柳生宗厳と弟子である疋田景兼が仕合を行い3×0の圧勝。
弟子にすら勝てなかった柳生宗厳は信綱に感銘を受け弟子入り、後に柳生新陰流を起します。

その後、京に入り、旧知であった公家・山科言継を尋ね、その斡旋で十三代将軍足利義輝に演武を上覧。
自らも「剣豪」として名を馳せていた義輝は感服し「兵法新陰、軍法軍配天下一」の称号を信綱に授けます。
このとき、相手役(打太刀)を務めた丸目長恵は信綱の技量に驚き即座に新陰流に入門し、後にタイ捨流を起します。
(丸目長恵の弟子では立花宗茂等が有名)
また、正親町天皇の前でも演武を天覧、従四位下に叙せられ天皇愛用の御前机を拝領しました。

この後、関東へ戻る際、北條氏の下に立ち寄った際、小田原で息を引き取ったそうです。
後妻(北條綱成の娘)との間に生まれた子は北條氏に仕えまていす。
北條氏滅亡後、子孫は上杉氏に仕え、近代では。海軍中将上泉徳弥等を排出しています。

現在、剣道で用いる竹を割って作る「竹刀」は、信綱が考案した「袋竹刀」がベースになっていると伝えられています。
袋竹刀(布の袋の中に竹を割いて組み合わせたものを入れている)は、修練で木刀では怪我をする事が多いので、その対策として考えられたようです。

トップに戻る  / 人物に戻る

inserted by FC2 system