小幡信貞 〜上州の赤備え〜


天文九年(西暦1540年/皇紀2200年) - 文禄元年(西暦1592年/皇紀2252年)

小幡重貞の子とされていますが、実際は不詳です。
重貞=信貞とも言われていますし、信真や信定等、信貞の別名とされていますが信貞の子ではないかとも言われています。
信定だったけれども、後年信貞に名を変えたとも言われています。詳細不明。

一応、重貞の子として話を進めます。
小幡氏は古来より東国に土着した藤原氏の一派の流れを汲む国人で、上州を代表する国人衆の一つでした。
上州八家にも数えられています。

代々、国峰城を主城として西上野の一部を支配しており、関東管領上杉家の被官として仕えてきました。
重貞の代になり、戦国乱世が風雲急を告げ、北條氏による関東経略や武田氏による西上野侵攻が起こります。
時の関東管領上杉憲政は北條氏にコテンパンにされ越後へ逃亡。
そのゴタゴタの中で、長野業政にそそのかされた一族の小幡景純が国峰城を奪取してしまいます。
景純の妻は長野業政の娘、対する重貞の妻も業政の娘。
業政の娘婿同士が国峰城を奪い合うというまさに乱世!

なお、信貞の妻も業政の妻という説もあり、もうわやくちゃ・・・
どんだけ娘もうけたんだ業政!(一説には12人)

ただ、この国峰城を奪われた件については逸話があって、重貞・信貞親子が、草津温泉に湯治に来ている隙に景純に城を奪われたのだとか。
なんかの事情があったにせよ、呑気過ぎないか?(笑)
そんなこともあってか、信貞は信州に逃亡し武田信玄を頼ります。

上州は古来より馬の産地として勅旨牧もあったほどの場所です。(勅旨牧があったのは、上州のほか、信濃・甲斐・武蔵のみ)
信長公記にも、小幡勢は「上州の朱武者」や「馬上巧者」と表現されております。
小幡信貞は率いる兵も武田家中最大の五百騎とされました。
かの高坂昌信でさえ三百五十騎であった事を考えると、破格の待遇でありいわゆる「上野衆」の動員能力の高さが伺えます。

長野氏が潰え、武田氏が西上州の支配者となると小幡信貞は再び国峰城に配され、上州担当のような仕事を請けるとともに、武田氏の行う戦に何度も借り出されます。
駿河進攻、小田原城の戦い、三増峠の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどなど・・・
特に長篠の戦いは、武田氏の命運を決める合戦で、信貞はこの合戦で父と弟を失ったとも言われています。

その後、武田氏が滅亡した後は、滝川一益に降り、その後は北條氏に属します。
秀吉の北條攻めでは、国峰城を護りますが、前田利家・上杉景勝率いる北陸方面軍により敗退、家康を仲介し降伏した後は、真田氏を頼り余生を終えました。
信貞の息子たちは、幕府旗本、真田家、前田家にそれぞれ仕官し、明治を迎えます。
ちなみに、武田家中で「小幡」と言えば甲陽軍鑑を記した小幡勘兵衛は、同じ小幡でもまったく無関係だそうです。

武田信玄・勝頼親子からは相当信頼されていたらしく、裏切りそうな木曾義昌に換えて「小幡信貞を木曽の地に配してはどうか?」という進言があったり、海津城代に任じようと考えていたような話が甲陽軍鑑に散見されます。
上州人の律儀さや義理人情がよくわかる話ですね。

「赤備え」といえば、どうしても飯富虎昌、山県昌景、井伊直政、真田信繁が有名どころですが、忘れちゃいけない五人目(?)の赤備えである小幡信貞
・・・浅利信種もいるけどね、忘れてたわけじゃないよ!
浅利信種も一時期箕輪城代をやっているから、群馬とまったく無関係というわけじゃないですね、そういえば。

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