新島襄 ~グッドバイ、また会わん~


天保十四年(1843年) - 明治二十三年(1890年)
H25NHK大河ドラマで一躍知名度を上げた新島八重の配偶者です。

江戸の安中藩邸において、安中蕃で祐筆の職にあった父・新島民治の子として生まれ、七五三太(しめた)と名付けられました。
江戸の安中蕃板倉家の藩邸は、今の東京都千代田区神田錦町にある学士会館付近です。
現地には行ったことはありませんが、新島生誕地を記した石碑があるとか。

父民治は上記のとおり祐筆というあまり地位の高く無い人ですので、江戸藩邸住まいの生活の中で新島は頭の下げる事も多かった事でしょう。
そんな新島が、人の平等を謳うキリスト者として目覚めるというのも、中々皮肉というか当然の帰結というか・・・

おそらく江戸藩邸での出来事かと思われますがアメリカの書物に触れ、後に幕府の軍艦操練所に入り洋学を学ぶようになります。
この軍艦操練所というのは、勝海舟が主宰した神戸海軍操練所とは異なる幕府直営(?)のものです。
たくさんの邦訳・漢訳された書物に触れるうち、翻訳された聖書を読んで平等思想に感銘を受けたのもこの頃と言われています。

アメリカの書に触れ、洋学を学ぶ連れ、新島は渡米への想いは募るばかり・・・ついには密航を考えるようになります。
当時は開国していたとはいえ、やはり渡米・渡欧となると幕府や藩の許可が必要ですし、他に比べて秀でている事が周知されていなければ選に漏れてしまうでしょう。
新島の密航の想いは、ついに行動につながる事になり、当時開港されていた函館から上海へ、そしてアメリカへ密航しました。
ボストンに密入国した新島は、上海から乗った船の船長の家にお世話になる事になり、そこからアメリカの学校に通う事となりました。
この船長から「ジョー」と呼ばれていたことから、後に「新島襄」と自ら名乗る事となります。
ちなみに、ここで通っていた学校はフィリップス・アカデミーという超名門校で、ここを出た有名人は他に、ハンフリー・ボガードやブッシュ元米大統領(親子とも)等がおります。

新島が在米中に明治維新が起きますが、密航者である彼が簡単に戻れるはずもなく、新島は在米のまま大学まで卒業し、学士号を得ます(日本初の学士号取得者)。
さらに在米中にキリスト者として洗礼を受けるとともに、牧師の資格も取得しました。 この頃通っていたアーモスト大学では、「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士の授業を受けていたようです。
アーモスト大学の卒業者一覧表には「ジョゼフ・ハーディ・ニーシマ」という名前が残っているそうです。

さて、明治維新が終わり御一新の世の中となり明治新政府とアメリカに正式な国交が成立すると、岩倉使節団がアメリカに来ることになりました。
幕府は既に無く、安中蕃も版籍奉還により板倉家のものではなくなり、後に安中県へ。。
新政府の駐米公使である森有礼の計らいで、脱藩・密出国の罪は無くなり、正式に政府の留学生の地位を得ます。
さらには長い米国在住経験と語学力を買われ、岩倉使節団に随行することとなり、渡欧します。
その後、アメリカにもどり、アンノーバー神学校を卒業すると同時に、日本にキリスト教の理念と欧米の教育制度による大学設立を強く意識し、米国内での寄付金集めを行いました。

明治七年(1874年)の11月、新島は10年近い欧米生活にピリオドを打ち、日本に戻りました。
帰国するや否や知人や政府高官に働きかけを行い、 翌明治八年には京都の山本覚馬らの協力や土地提供により、同志社英学校を設立することになります。
これが現在の同志社大学です。
この頃の同志社英学校には徳富蘇峰等も入学していたそうです。

さらに明治十年には同志社女学校(後の同志社女子大)も設立。
明治十一年には、湯浅治郎ら30名を洗礼し、安中教会の設立を助けます。
この安中教会は碓氷郡役所の横に置かれたもので、日本初の日本人により設立されたキリスト教会になります。

その後、二度目の訪欧を行う等、教育制度の充実やキリスト教の教えを日本に広く伝達するための行動をとりつつ、自由民権運動にも関わる新島でしたが思想を広める運動を前橋で行っている最中に腹痛により倒れます。
横浜で静養を続けましたが、明治二十三年に妻である八重や徳富蘇峰に遺言を伝えつつ48歳の若さでこの世を去ります。

記録によらば、遺言は「狼狽するなかれ。グッドバイ、また会わん」だそうです。

群馬県の郷土かるたである「上毛かるた」では、「平和の使者(つかい) 新島襄」として県民にその名を多く知られています。


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