和田業繁 〜長野業政の片腕〜


生年不詳〜天正三年(1575年)

上州の和田氏の出自ははっきりした事はわかりません。
鎌倉時代、和田義盛の乱により桓武平氏三浦流の和田氏はほぼ一族絶滅となりました。
上州和田氏は、誅されたはずの和田義盛の六男(または七男)が上州流れ着いて土着した事から始まると言われています。
和田氏がたどりついたから、今の高崎界隈が当時は「和田」と呼ばれていたのかもしれませんね。

その後裔である和田業繁は、和田城主(現在の高崎城界隈にあった)として長野業政とともに上杉憲政に仕えていました。
和田業繁の母は長野業政の妹であり、業繁の妻は長野業政の六女ですので業政と業繁の個人同士の結びつきはとても強かったかもしれません。
業政から業繁を見れば甥で婿、業繁から業政を見れば叔父で舅ということになりますね。

業繁は業政とともに関東管領上杉氏の被官としてて西上州の防衛や北條氏・武田氏との抗争に出兵したりしていました。
天文十三年(1544年)の河越夜戦や天文十六年(1547年)の小田井原の戦いですが双方とも上杉方の大敗でした。
江戸時代の軍記物「関八州古戦録」では、業政は小田井原の戦に赴く憲政を戒めたとも書かれています。
河越夜戦には業政は出兵しており、長男を戦で失ったとされています。
(陣中で夜襲に警戒するよう諫言したという話もあります。)

ただ、和田業繁は両方の戦に参戦し、そして両方で兵を失って帰郷しています。
小田井原の戦の後、上杉憲政の越後への逃亡、武田氏の西上州経略と事態が進展していく中で業繁は叔父であり舅である業政を助け、ともに戦い続けます。
天文十八年(1549年)の三尾寺合戦には和田業繁は安中忠政や倉賀野行政らとともに参戦し、西上州の防衛に務めています。
翌十九年(1550年)の松井田城防衛戦、弘治三年(1557年)の瓶尻合戦、同年の箕輪城防衛戦等にも参戦しました。
まさに「長野業政と西上州オールスターズ」は、幾度も武田氏の侵攻を挫き続けました。

そうしているうちの永禄四年(1561年)、ついに西上州の防衛の要であった長野業政が病没します。
箕輪衆は、嫡子業盛を立てて、業政の遺言(敵に降伏するな、運が尽きたなら潔く討死せよ)を守り西上州の防衛を続けようとしました。
しかし、精神的支柱が抜けることは、やはり大打撃。

和田業繁は一大決断をします。
永禄五年(1562年)和田城とともに武田信玄に降伏、その家臣となりました。

なお、別の視点として、長尾景虎が上杉憲政を奉じて関東に出兵した際のエピソードが影響しているという事も挙げられます。
永禄四年、鎌倉鶴岡八幡宮にて関東管領を引き継ぎ、長尾景虎が上杉政虎となりましたが成田長泰が下馬せず挨拶をしたということで政虎は扇で長泰の烏帽子を打ち落とします。
これに怒った長泰は手勢を引き連れ本拠である忍城に帰還します。
成田氏は源義家にも下馬をせず挨拶をしたというほどの藤原氏の流れをひく名門であるため、長泰からすれば当然の行動でしたし関東の諸将も当然の事と思っていました。
しかし上杉政虎はその故事を知らず、単純に「無礼者」のような扱いをしてしまったため、関東の諸将は上杉政虎から心が離れたといわれています。
和田業繁も、これに漏れることなく、上杉政虎に対して反感を抱いたという事も考えられます。
ただし、上記の「烏帽子を落とした」エピソードは「相州兵乱記」という軍記物にあるエピソードなので信憑性については議論が分かれるところであろうと思われます。

武田氏に鞍替えした和田業繁はそのまま和田城の防衛を続け、上杉謙信が来襲しても、和田城を守り続けました。
やがて武田信玄が死去し、勝頼の代になりました。
勝頼は信玄以来の領土拡張政策を続け、天正三年(1575年)にはついに織田・徳川勢と決戦に挑むことになりました。
世に言う「長篠の戦い」ですが、この戦は武田方の大敗。
この戦に和田業繁も参加しており、その場で戦死したとも、戦傷を負い、それが元で死去したとも言われています。

和田氏は、その後、業繁の婿養子である信業(実父は跡部勝資)が継ぎますが信業は北條氏に寝返ります。 北條氏滅亡後、一族は放浪しますが、最終的には会津藩に仕官したようです。

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