中居屋重兵衛 〜歴史に埋もれた横浜の豪商〜


文政三年(1820)〜文久元年(1861)?

上州は吾妻郡中居村(現在の嬬恋村三原あたり)に生まれた中居屋重兵衛は、本名を黒岩武之助、長じて撰之助と名乗ります。
中居村の黒岩家といえば、一体でも有名な富者で、火薬や薬草の取引で財を為し、近隣の草津温泉等での湯屋業でも成功していた一族だそうです。

しかし、撰之助の父の代に家業を傾け父は夜逃げ・・・
(ちなみに、この父は相当な教養人であったようで、その後絵師として大名お抱えになったり宮中に呼ばれたりしています)

若くして家業を継いだ撰之助ですが、若い頃から才気煥発なところが有名だったようで、二十歳になるかならないかの頃には江戸に行ってしまいます。
妻と甥に家業を任せ一人で江戸に行ってしまうわけですが、撰之助は成功したからいいものの、親父とそっくり(笑)

江戸に行った撰之助は母の縁者である和泉屋という書店に世話になります。
そこの娘を江戸妻としちゃうわけですが、それはさておき。
書店に奉公した撰之助は、書物から知識を吸収し、どんどん成長していきます。
江戸在住時代には蘭学、砲術、武術等をよく学んだそうです。
川本幸民、佐久間象山、斎藤弥九郎に師事したと伝わります。

安政元年に撰之助は和泉屋から独立し、自ら店を旗揚げし「中居屋」という屋号を名乗ります。
中居屋というのは上州の実家の屋号であり、現在嬬恋村に撰之助の生家跡が残っています。

安政二年、撰之助三十五歳に「処世訓子供教草(しょせいくんこどもおしえぐさ)」「集要砲薬新書」という書物を立て続けに執筆しました。
処世訓子供教草は商家に奉公に来る子供に対して商売の心得を教える内容です。
集要砲薬新書は、これまで撰之助が研究してきた火薬調合の集大成です。
上州勢多郡樽村(現在の渋川市赤城町樽)の地に火薬の実験場を設けたりもしています。
さらに安政五年、撰之助は「火薬集要」という書も出版しました。
安政年間は黒船来航により世の中が混乱し「攘夷攘夷」と騒がれている最中です。
当時は火薬の調合等は各藩や研究者での極秘事項でしたが、撰之助が火薬の調合を公表したことにより、調合方法を教えてもらうためや火薬そのものを求めるために諸藩の武士が続々と中居屋に訪れます。
中居屋の商売は火薬のほか、生糸や薬草等を扱い、着実に富を蓄えて行きました。

安政六年、日米修好通商条約の締結に伴い横浜が開港すると幕府は貿易のために横浜出店を江戸の各商家に求めます。
「求める」と言っても、半ば強制的な意思も働いていますが・・・
佐久間象山らとのつながりもあり、蘭学にも長けていた撰之助は開国派で開明的な思想を持っており、ここぞ商機とばかりに横浜に店舗を移します
横浜に居を移してから、撰之助は「重兵衛」という名を名乗るようになりました。

当時最も品質の良かった上州産の生糸を独占的に扱った中居屋の商売は各国に好評で、ここで莫大な富を得る事に成功します。
一説によれば日本から輸出される生糸の半数は中居屋によるものであったとも言われています。
中居屋の店舗兼屋敷は「横浜一」とうわたれ、銅葺の屋根によるその建物は「銅御殿(あかがねごてん)」とも称されました。
但し、生糸の販路の急な拡大により価格が暴騰し、強烈な生産要求に養蚕農家が追い付かず家業を畳む農家が出るほどとも言われた側面もありました。

中居屋の商売は堅実と思われていた矢先の安政七年、時の大老井伊直弼が暗殺されます。
世に言う「桜田門外の変」です。
開国派であった重兵衛は、当時水戸藩と接触があったようで大老襲撃時に使われた短筒(拳銃)は、実は重兵衛が水戸藩に提供したものという説があります。
真相は闇の中ではありますが、桜田門外の変が世間に伝わる前に、重兵衛が家人に向けて「今日はいい知らせがある」と言ったとかなんとかいう逸話も残ったりもしています。
また銅葺の屋根はあまりに贅沢と幕吏から追及を受けた際には一日で屋根を黒塗りの板葺に手直しを約束した上で「外国に向けてみすぼらしい店舗では幕府に迷惑がかかります」と啖呵を切ったという話もあり、幕府からはそれなりに危険人物視されていたかもしれません。

桜田門外の変の翌年の文久元年、重兵衛は病により急死します。
四十二歳の若さであり、商売も順調であった中だったことから前述の事もあり暗殺説も流れました。
一説には房総に逃亡し倒幕運動に資金援助をし続けたという話もあるほどです。

カリスマ的に店を経営していた重兵衛が死去した事により、その後の中居屋は消息が不明となりました。
店は畳まれたと思われますが、重兵衛には娘が一人いたのみで子孫のその後も長らく昭和になるまでわかりませんでした。
また生家跡や中居屋店舗が火災に遭い、資料等が失われてしまったために、まさに「歴史に埋もれた」状態だった中居屋重兵衛

近年は地元郷土史家等の丹念な調査によりある程度の事は解明されてきました。
但し、一部では「中山文庫」という中居屋重兵衛に関する膨大な資料が「偽書ではないか」という説も出ています。
暗殺説のほか、幕吏にとらわれて獄門死等の説は中山文庫によるところが大きく、膨大な交流関係も示唆されますが、ほぼ中山文庫に準拠しているようです。
黒岩家や中居屋の財力により、ハンセン病治療に貢献があり「生き神」として扱われたという話もあるのですが、上記の「中山文庫偽書説」に倣うならば「生き神だった」話はほぼ覆されるか、さほど大きな話ではなくなってしまいます。
また、その偽書説は安藤昌益研究にもだいぶ影響を与えているようです。
(本件に関しては参考資料の箇所にある「真贋」という書物に詳しくルポされています。)

歴史に埋没していた期間が長かったせいか幕末史に名が上がる事は少ないですが、維新動乱初期である開国にまつわる人物の一人である事は確かだと思います。
なお遺骨を納めたとされる墓が嬬恋村に残っています。

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