大谷休泊 〜戦国の世に戦わずに英雄になった男〜


大永元年(1521)〜天正六年(1578)
関東管領山内上杉家家臣。

上杉憲政(別項参照)の下で、農業奨励・開拓事業を主に行っていた農政家です。

憲政の居城である平井城が北條氏により落城した後、休泊は直接戦に関わっていない事から許されて追放のみで済みました。
しばらくすると、館林城の長尾顕長が休泊を招聘し、農地開発等の依頼を受け館林に居を構えます。
この時、休泊を保護した領主は由良氏とも赤井氏とも言われていますが、ともかくも館林周辺の開発についての仕事を命ぜられた形になりました。
ここでは赤井氏という事で話を進めていきます。
年代から言って、赤井照康あたりかと推察されます。

当時の館林は夏は利根川と渡良瀬川の両方に挟まれ、度々の水害に悩まされる反面、冬は上州特有の強風(空っ風)で乾いた土が舞い上がる土地でした。
その他土地そのものもあまり肥えておらず(土が悪かった?)、農民達の多くが貧窮していたそうです。
水不足が深刻化すると、領民同士の水争いも頻発し、領主としては治安の維持に頭を悩ましたことでしょう。

こういった状況で農業生産力を向上させるのは並大抵の事業ではありません。
休泊は領主の本気度を確認しました。
赤井氏も休泊の強い意志を察知したのか、事業開始を許可し資金を提供します。
休泊は地域全体の農業生産力向上を図るため、大風呂敷を広げる事なく順序だてて事業を展開します。

まずは植林計画です。
冬季の空っ風により舞い上がった土は、結局土地に定着せず砂埃となるばかりです。
これでは、土地が育ちません。
休泊は地域的な防風林を構築し始めます。
永禄元年(1558)のことですが、苗木から育てていてはとても間に合わないので、近隣の山から松の成木を分けてもらう事にしました。

初年度はなかなかうまく育たず周囲に不安が広がりますが、祠を建て松の生育を祈願したところ二年目からは順調に根付きだしました。
こうして植林計画を進めていく中で一大事件がおきます。

北條氏に属していた赤井氏ですが、越後より長尾景虎が越山し北條氏との本格的な抗争が上野国を中心に繰り広げられます。
そんな中、赤井氏は滅ぼされてしまい、休泊が進める事業は協力なスポンサーを失ってしまいました。
長尾氏も北條氏も係争地となっている上野国についてはいつ相手が攻めてくるやも知れない事から内治より防衛に重点を置かねばならず、結果として休泊の事業の継続は事実状不可能となると思われました。

その時、植林に携わっていた周辺の百姓連中が「一緒に事業を続けたい」と声を上げます。
人手はもちろんのこと、資金面でも地域で助け合い、農地改革の事業を進める機運となりました。
ここで、休泊が事業の継続を決断します。
幾人かの篤志家の援助もあったことと推察されますが、二十年近くかけてついに防風林が完成しました。

およそ五百町歩、120万本という植林は現在も生きており、多々良沼周辺の松はこの時の松の子孫であるとされています。
この時、造成された植林地域は「大谷原山林」と呼ばれています。

植林が進む中で風害を恐れる事が無くなり、冬に舞う土が土地に定着する事を確認した休泊は植林と並行して開拓事業にも着手します。
休泊は渡良瀬川から用水を引き「上休泊堀」と「下休泊堀」という広大な用水路網を築きました。
その広さは三十五もの村々に行き届き、千町歩程の広さの農地を潤しました。
また、それに併せて渡良瀬川や利根川の要所要所に堤防を築きました。

こうして、事業を進めている最中の天正6年(1578)、休泊は病に倒れます。
働きすぎたからなのかどうか、病に倒れてから死去までは早かったようです。
妻と三歳になる息子作太郎に看取られ、一緒に作業を進めた人たちに後を託しながら息を引き取ります。

享年五十八歳

その後の休泊関係の動きですが、まず周辺の領民は休泊に感謝の念を忘れる事はなく、事業初期に松の無事な育成を祈念するために建立した館野ヶ原の祠を「大谷神社」として今でも大事に保存されています。
また、死去から三百年後の明治十五年には山林開発に功績ありとして当時の政府より山林賞を受け、大正四年には従五位を追贈されています。

戦を指揮したわけでもない官吏に対しては多大が厚遇と言っても差し支えないとも思えます。
逆に言えば、それほど休泊の行った大事業が上野の農業生産力を向上し、石高を増やし、それが後世まで連綿と伝わり続けたという証ではないでしょうか。

現在、休泊の墓は館林市にひっそりとたたずんでおりますが、昭和二十八年には休泊の墓所は県指定史跡とされております四百年たっても、領民は休泊の活躍を忘れていなかったのですね。
なお、休泊の遺児(作太郎)は、休泊の事業を補佐し続けた熊倉家に養子として入り、熊倉家は現在も存続しております。

農政家 大谷休泊

彼の偉大な事業は今でも上毛の秋の稲穂や小麦として色濃く生き続けています。

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