子午足 〜上毛最初の有名外国人?〜


続日本記の天平神護二年五月壬戌の条目にある新羅人。

天平神護二年といえば、西暦にして766年/皇記1426年。
壬申の乱から約90年後、時の天皇は称徳天皇。
道教が法王となった年の出来事です。

「在上野国新羅人子午足等一百九十三人賜姓吉井連」

読み下してみると、こんな感じでしょうか?

「上野国に在った子午足(こうまたり)ら193人の新羅人に、≪吉井連≫の姓を賜った」

つまり、ここから読み取れるのは、奈良時代の末期の段階ですでに上毛の地には相当数の帰化人が住んでいたということが分かります。
飛鳥時代の初めより、多数の帰化人が日本を訪れ、文化を伝え、日本に定住をしていきました。
その数は相当数に及ぶことを想像することは難しくありません。。
百済滅亡に至り更なる数が渡来した中で、当時の中央・・・つまり大和王権の中心から見ても「毛人の国」である毛野国に住み着いた帰化人たち。

また、日本書紀によれば、仁徳天皇の時代(仁徳53年)に、祟神天皇の子の豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)の子孫である竹葉瀬(たかはせ)という人物が貢調しない新羅を問責するために派遣され、その弟の田道(たぢ)が兵を率いて新羅を討伐し、住民を捕虜として連れ帰ったとあります。
なお、この竹葉世と田道が上毛野氏の祖先となります。

こうして上毛に住み着いた帰化人たちの中でも、一地方の話題としてわざわざ史書に名を記される「子午足」なる人物は、上毛に住むそれらの者たちの代表者か何かであったのではないでしょうか?

もともと、この新羅人らが住んでいた地域は和銅四年(西暦711年/皇記1371年)に、甘楽郡/緑野郡/片岡郡などから郷を分け、新たに「多胡郡」が設置された場所です。
「多胡」という文字からもわかるとおり「胡(えびす)が多い郡」という意味にも取れます。
そして分離させる前の地名である「甘楽」も「韓(から)」に通じており、この地域がどういう地域であったかが偲ばれます。

新羅人 子午足

彼は何を思って異郷の地で名を馳せたのでしょうか・・・

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