葛井親王 〜初代「上野守」〜


延暦17年(西暦798年/皇紀1458年)生まれ。成年は延暦19年説もある。

平安時代の皇族で桓武天皇の第12子。
母親は坂上春子、あの坂上田村麻呂の娘です。
ゆえに、葛井親王は坂上田村麻呂の孫という事になります。

葛井親王は幼少より聡明であり、6歳のときには勅により帯剣を許されほどでした。
武芸の中では特に弓を得意とし、嵯峨天皇の御世に天皇がいろんな皇族や家臣を集めて射芸大会を開催した際の逸話が残ります。
大会の興のひとつとして戯れに当時12歳だった葛井親王にも弓を射させたところ、すべてが的に当たり観客は大喝采。
そこに居あわせた外祖父である田村麻呂は歓喜して孫の葛井親王を抱き「昔、自分は蝦夷を攻めて無敵だったが、葛井親王には勝てないな」と多いに喜んだとか。

さて、葛井親王と上毛の関係ですが、当時上野国は延喜式での格は「大国」に位置付けられていました。
桓武天皇は大変な子沢山であり、その他親王が多くなってきて与える官職が窮乏してきたこと、並びに東国に対しての中央政府の統制強化の一環として大国の国司をいくつか皇族に任じる事としました。
いわゆる「親王任国」という制度で、天長3年(西暦826年/皇紀1486年)に始まります。
このとき、親王任国となったのは常陸・上総そして上野でした。

葛井親王は、このとき上野太守に任じられ、初代「上野守」となります。
「こうづけのかみ」という事ですね。

余談ですが、親王格が上野太守となったため、その後に家臣が同じ役職に就くことは不敬とされたため、上野を含む親王任国の国司は以降「○○介」と名乗るのが慣例化しました。
吉良義央、小栗忠順が「上野介(こうずけのすけ)」だったり、織田信長が「上総介」だったりするのはその為です。

葛井親王は上野守の後には常陸守に就任します。
その後、承和8年(西暦841年/皇紀1501年)に三品に昇格し、大宰師(太宰府の長官)となり、晩年は酒宴を多数開催し、声楽や管弦に評価があったようです。

嘉祥3年(西暦850年/皇紀1510年)没。
なお、没する三年前の承和14年(西暦847年/皇紀1507年)に外祖父である田村麻呂が建立に寄与したとされる清水寺に三重塔を建てております。

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